山での出来事~ダージリン・シッキム 2~

「チケット売り場はあっち。一緒に行ってあげるよ。」
旅先で知り合う旅人同士は国籍を超えて助け合あうこともしばしば。
「ついでに隣同士の席にしてもらおうよ、話しながらダージリンまでいけるしさ。」
う~ん、英語がいまいちな私。久々に使うさび付いた私の英語で大丈夫だろうか?
でも、この人、大変オープン・ハートな波動を持っている人。
私の英語でも許してもらえそうな感じだ。
「日本人なの?先月まで日本で禅の修行をしていたんだ。ほら、この帽子はシンジュクのタカシマヤで買ったやつ」
ヨーロッパ出身のこのヤクさん。ここ数年インドをベースとしてずーっと旅を続けている。
インドでヨガを習い、タイのお寺で修行し、そして日本へ。
ああ、若かりしころ、私もそんな旅をしていたな。
どうやら大変スピリチュアルな人のようである。真っ直ぐ人の眼を見て話す。
この人の眼、どこかで見たことのあるような気がする。
でも絶対に初対面のはず。誰か友達に似ているのかな?思い出せなくてちょっとイライラする私。

数時間してやっとダージリンに到着する。長い一日だった、、、、、、
既に日も暮れていることだし、今日は適当な部屋をシェアして明日からそれぞれの宿を見つけることにしよう、と話がまとまる。
それにしてもダージリン!!素敵な街だ。
山肌に張り付くように家々が建ち、坂道の多いこの街。
朝になればカンチェンジュンガ(ネパール・インド国境にある山)も見渡せるよ、と宿の人は言う。
そして、なによりも楽しみにしていたチベット料理も満喫できる。
ああ、今私は山の中にいる!!幸せな気分で眠りにつく。

翌朝早く、丘の上にビューポイントをあると聞いて登ってみる。
カンチェンジュンガと初対面。美しいクリスタルとアクアマリンを産出するこの山。
クリスタル好きの私にとって「聖なる山」である。
さぁ、今日はもう少し安い宿を探して落ち着かないと、、、、と思いながら
丘を下っていると、古ぼけた大きな建物が見えてきた。どうやら宿らしい。
ちょっと部屋を見てみることにする。
お客がまったくと言っていいほどいないこの宿。
ドミトリーでたったの40ルピー(110円)暖炉つき。
宿代の高いダージリンとしては破格な値段。
ドミトリーと言ってもお客はちっともいないのでこの広いドミトリーを占領できる。それも暖炉つき。
ヤクさんと「この宿に移ろう!!」と即決。
けどヤクさん、私と同室でいいの?プライベートな部屋が欲しくない?大丈夫?と聞いてみると。
「普段は人と部屋をシェアすることはないけど、まぁ、大丈夫。ひとりになりたくなったらそう言うから」
人の気持ちを察しあうことなく自分の言いたいことはハッキリと言う。
この「察しあい」をしなくていいというのが西洋人と付き合っていて楽なところ。
「でも自分は毎日瞑想をする。その邪魔さえしなければ問題ないよ」そう言ってもらえるとこっちは本当に楽。

早速新たな宿に移り、街に出て食料を買い込みダージリンティを入手して昨晩に続き
美味しいチベット料理を食べる。
日も暮れて寒くなると手に入れた蒔きを暖炉にくべる。
薪のパチパチ跳ね音だけのする山の中の宿。穏やかな静寂。
こんな時を過ごしたくて私はインドにまた戻ってくたのだな、、、、
横ではヤクさんが蓮華座を組んで瞑想している。
違う次元に入り込んでいる同室者なので今、現実の世界にいるのは私ひとり。
「ちょっとここで横になってごらん」と現実の世界に戻ってきたヤクさんが私の頭に両手を置く。
なんだかヒーリングを受けているようだな、、、、
そして昔見た「白い手」の夢を思い出す。
真っ暗な空間の中でひとりたたずむ私の頭上に下りてきた。大きな真っ白に輝く神々しい手。
どうしてもその手に摑まりたくてもがくけど、その手に触れることができない。
暗黒の世界から引っ張り出してくれそうなその手。でも結局その手には触れることもできなかった。
、、、、なんだか現実の世界であの白い手が戻ってきてくれたんだな、この山の中で。

しばらくすると数年前に死んだ父のことを思い出す。
現実社会にうまく適応できなくてお酒に逃げてしまった父。
決して「良き父」ではなかった。
それでも彼が死んだとき、私にとってはこの世で唯一の父親であり肉親だったので悲しかった。
少しばかりの涙も出た。でもどこかで死んでくれてホッとしている自分もいた。
彼の死後、ほとんど思い出すことは無かったのに今、私の心の中に父がいる。
そして、やっとわかった。
彼は現実社会で生き抜くことが下手な魂の持ち主であったこと。
生活の糧を得る父として、夫としての役割に耐えられなくなり階段を踏み外すごとくお酒に溺れていったこと。
私がフラフラと旅をしてる時期、賛成もしなけば反対もしなかった。
ただ一言「俺が今の時代に生まれていたなら、きっと同じようなことしてただろうな」
要するに私と父はとても似たもの同士だった。現実社会不適合なところも含めて。
父がとても愛おしく思えてきた。
そんな感情を持ったのは生まれて初めてのことだった。
そして生前もっと父を助けることが、本当はできたのではないか?と思った。
きっとできたはず。でも私は手を差し伸べなかった。
魂が抜け落ちていくその過程を冷ややかな気持ちでただ傍観していただけだった。

歳を重ねたせいか「自分のために泣く」といったことができなくなっていた私だったけど
この時はさすがに涙を止めることができなかった。
知らない人の前で泣くなんてちょっとはずかしかったし
大体、人前で泣くなんて「若さの特権」だと思っていた。
喉と胸が締め付けられるような痛みとともに涙が溢れ出した。
半べそをかきながら、ヤクさんにさっきまで自分の中に起こったことをぼそぼそと話す。
ただ慈悲深いまなざしで、私の下手な英語をうん、うんと言いながら聞いてくれた。
こうやって人の話をただ聞いてくれる人って、とってもありがたいな、と思った。

<続く>

山での出来事~ダージリン・シッキム 1~

◆2004年インドシッキムにて

今回はダージリンに行こう、日本を出る前からそう決めていた。
美味しいチベット料理が食べられるインドの山岳地帯は私のお気に入り。
久々のインド行きにテンションも上がりっぱなしだった私だったけど、
いきなり成田空港で足止め。そう、オーバーブッキングで翌日便になってしまった。
そして次のバングラディッシュでもフライトキャンセルを喰らい、ダッカで1日足止め。
なんだか今回の旅、リズムが狂うな、、、、と予定より2日遅れてカルカッタに到着。
しばらくカルカッタでインドの空気に慣れてから動き始めよう、、、、と思っていたら
同じドミトリーのドイツ人のおばさん、世話焼きで人はいいのだけど
完全にいっちゃっている。朝の6時から聖なる説法が始まる。
宇宙の扉が開きエナジーが降り注ぐのよっ!!
と瞳孔開きっぱなしで1時間に渡る説法は既に2日目に突入。
う~ん、ちょっと辛い。予定よりちょっと早いけどダージリンに行こう!!とチケットを買いに行く。

予約票を記入して順番を待っていると、隣に座っていたインド人らしき男性に声を掛けられる。
「ダージリンに行くのか?だったらその列車はお勧めしないな」と。
なんでも私の乗ろうとしていたその列車、外国のガイドブックに載っている有名な便で
それに乗ってしまうと次に乗り換えるトイ・トレイン(ダージリンで有名な山岳列車)のチケットを
購入するのが大変らしい。、「みんな一斉に下車してトイ・トレインのチケットを購入しようとするからね。
その便よりもう1本前の列車のほうがいい、ゆっくり朝食でも食べてから
トイ・トレインのチケットの順番待ちに並べるよ」と。
この人、実はインド人でなくてバングラディッシュ人のツアーガイドさん。
クライアントのチケットを購入しにこのリザベーション・オフィスにしょっちゅう出入りをしているらしい。
時刻表の見方の分からない他の旅行者やチケットの買い方がわからずオフィスをうろうろしている
外国人に声を掛け、なんだか職員のようにみんなに親切を振りまいている。
時刻表を調べて予約票の書き方まで教えてくれる。妙に親切な人である。
妙な親切、、、、インドでは疑え、が鉄則だけどなんだけど金銭を要求するそぶりもないし、
ホテルのプロモーションを始めるわけでもなく、純粋に親切な人のよう。
ありがとう、、、、インドで、それもインドの都会で純粋な親切を受けるのは稀なこと。

翌日の夕方、カルカッタ駅から夜行列車に乗る。
翌朝8時には目的の駅に付いてそのあとゆっくり朝食を取りトイ・トレインに乗って
ダージリンに到着できる、、、、はずだった。
、、、、、寝過ごしました。
目的の駅を通過して1時間ほど後に、蚕棚のような寝台列車の中で眼が覚めました。
だいたい、この列車に乗り続けてしまうとアッサム州に入ってしまう。
なんだったらアッサムに行ってみようかな、、、これからの時代はダージリンティーでなくて
アッサムティーかも、、、なんてのんきに構えていた私だったけど、
「アッサム州南西部はボド族分離主義者の暴動で立ち入れないことがよくある。
北東部を列車で移動する際には、強盗にある危険がある。必ず現地の治安状況を確認すべきである」と
ロンリープラネット557ページに書かれていたことを思い出す。
キナ臭い国のキナ臭い場所はもうこりごりな私。
「私、ダージリンに行きたかったのだけど、、、、」周りの乗客にそう告白することにした。
「お前、もうとっくに駅は過ぎているぞ!!」みんな大慌て。
蚕棚の上から私の荷物を降ろしてくれたり、車掌さんに聞いてくれたり。
「次の駅で降りなさい」とみんなが教えてくれる。
ありがとう、みんな。でも降りてからどうやってダージリンに行けばいいのだろう?
周りのインド人が知っているはずもない、、、よな。どうにかなるさ、、、、、きっと。

降りるべき駅を過ぎてから1時間30分。やっと列車は停車する。
、、、、その駅で降りたのは私だけ、の小さな、恐らくガイドブックには載っていないであろう駅。
改札を出ると、サイクルリキシャのおじさんがひとり。
「げっ、なんで外人がいるんだ?」驚くおじさん。
「私、ダージリンに行きたいのだけど、、、、」予想通り英語は通じない。
ヒンディー語でも試してみるが、ダメ。ああ、ここはベンガル地方。ベンガル語でないとダメなのか。
とにかく「ダージリン、ダージリン、ダージリン」と連呼する。
「よし、わかった、乗れ」というジェスチャーをするおじさん。
もちろん、標高2000メートルのダージリンまでリキシャで連れて行ってもらえるとは思っていない。
どこかバス停まで連れて行ってくれるんだろう、、、、、、
田舎道を走ること30分。やっと舗装されている道路に出る。
人が集まっているところを見るとどうやらここにバスが来るらしい。
やっと来たローカルバスに乗り、「ダージリン行きのバスの出るバスステーションまでお願い!」の英語で通じた!!
バスに乗り込むとどっと疲れが出た。
なにしているんだろう?私。
大体今回の旅はまったくもって予定通りに物事が進まない。
成田で、バングラディッシュで足止め。ゆっくり滞在するはずだったカルカッタも3日で脱出。
トドメは列車の乗り過ごし。、、、、インドにお呼ばれされていないのかも、私。相当弱気になる。

1時間ほどで大きなバスステーションに到着する。
どうやらここからダージリン行きのバスが出発するらしい。
トイ・トレインに乗りたくてダージリンを目指した私。
でもすでにトイ・トレインは出発している。乗るには明日まで待たなくてはいけないはず。
もう、どうでもいいや。どんな交通手段でもダージリンに到着できればいい。
「終点・ダージリン」だったら寝過ごすこともないわけだし、バスで行ってしまえ!!
広いステーションを探すとダージリン行きのバスを発見。
人があまり乗っていないところをみるとすぐに出発するわけではなさそうだ。
よし、次はチケット売り場を探さないと、、、、と思っていたら
バスの窓際に外国人が座っているのが見える。
「すみません、チケット売り場は何処ですか?」
私が声を掛けたその人が、これから始まる「ちょっと不思議なこと」を共有することになる
山の中での旅パートナーだった。

祭りのあと

翌日から熱が出た。
風邪とは違い、頭痛もなく咳きも出ず、ひたすら熱が出た。
前日、帰りの車でお世話になったババの宿に遊びに行って美味しいカレーをご馳走になった。
ババ曰く、昨日が祭りのメインの日だったんだ。これが終わるとサンガンに集結したサドゥ達は
一斉にここ、バラナシにやってくるんだ。
昔は交通も整備されていなかったからみんな船にのってバラナシまでやってきたんだよ。
サドゥを乗せた船でガンジス河がいっぱいになるんだ。雄大な風景だったんだよ、、、、
なんとなく、その風景が想像できるような気がする、、、、、

単に外国のお祭りを見てきました、では済まされない経験だった。
大きなエネルギーの渦の中に飛び込んでいって、
今まで自分がこだわっていた価値観や限界が砕け散っていった、、、、
自分が空っぽになったような気がした。
空っぽになった頭と心。
なんでも吸収できそうな気がした。
翌朝から、とにかく見るものすべてが輝いて見える。
街角から聞こえる音楽が深く心に響く。
本を読んでいても文章1つ1つがじっくり心に染み込む。
見る・読む・触る・感じる。すべてのことにいたく感動してそのたびに涙が出てくるほどだった。

人生のリセット、なんだろうな、と思った。
それまでの数年間、日本で一生懸命働いていた。
なんとか人並みに働いて安定した生活をしようとした。
旅はもう卒業、と思っていた。
決して楽しい生活ではなかったけれど、誰だってストレスを抱えながら
コツコツと人生を歩んでいる。満員電車だって我慢している。
でも2001年を前にして私なりにがんばってきたものがすべて目の前からなくなってしまった。
なんの前触れもなく人生の進路変更に遭遇したような気がした。
「あなたの道はこれではありません」と運命に判決を出された挙句、取り上げられたような気がした。
運命のバカヤロー!と叫んでみたりした。
進路変更させたなら、進むべき新しい進路の道しるべでも教えてくれてもいいじゃないか、と。

でも、今になってみるとよくわかる。
クンブメーラを前後して私はヒマラヤクリスタルに出会っていた。
それをめぐる人脈にも出逢っていた。
あらから6年経った今、細々ながらクリスタルのお店なんて開いちゃっている。
神様はーーーー存在すればの話だけどーーーーー
私の足元にクリスタルというギフトをちゃんと置いてくれたんだ。
何かを手放せば、新しい何かがやってくる、、、、人生ってそんなものかもしれない。

祭りの後
「これで今回のインドはおしまい」という気がした。
この祭りのためにインドに来たのだから、祭りの後にいる必要はなし、と。

バラナシを離れ、ネパールに戻る。
しばらく祭りの疲れを癒してから帰国。
そう、たくさんのヒマラヤクリスタルとともに。

the end

2001年のクンブメーラ

2000年の冬、私はネパールにいた。
20世紀最後の年、ミレニアムがやって来る!と浮き足立っている中で
とってもさえない1年を過ごしていた私。
何ヶ月も続く体調不良、「人生の人事異動」の辞令が降りたごとく環境の変化。
その変化にすっかり付いていけなくなった私がそこにいた。
「秋には今の仕事、辞めようと思う」とポツリと言った私に友達は
「人生リセットだね。久々に旅に出ない?インド・ネパール」と道祖神のごとく私に囁いた。
悪魔の囁き?それとも道祖神?と思いながらも
2000年の冬、もう戻るまいと誓ったはずの旅人に逆戻りし、
美しいヒマラヤを眺めチャイを飲みながら
1週間の予定が2週間、気が付くとクリスマス・ハッピーニューイヤーと
次に行くはずのインドのことも「インドは1000年経っても逃げないし、、、、」
毎日が先延ばしの日々。

そんなある日、ホテルのロビーでテレビを見ていると
なんだかものすごい数のインド人が沐浴している映像が流れていた。
これ、なに?と一緒にテレビを見ていたホテルのインド人従業員に聞くと
「クンブメーラだよ、祭りが始まったんだ。ネパールの後にバラナシに行くんだよね?
祭りのあるアラハバードはバラナシから近いよ、行ってみるといい」
ふ~ん、お祭りか。行ってみたいな、、、、、
しかし私の「行ってみたいな」で、行ってみたためしがない。
タジ・マハールだってエローラの遺跡だってゴアだって「行ってみたい」けどまだ行ったことがない。
「タジ・マハールはテレビなんかでいっぱい見たし、、、」なんて自分自身に言い訳して。
「クンブメーラ、行ってみたいな」と思いつつ、恐らくタジ・マハールと同じく行かないだろうな、私。

年が明け、やっと重い腰を上げてインド・バラナシへと向かう。
母なるガンジス河と初めてのご対面。
「しばらく何処にも行かなくてもいいかも、、、」
そこそこ快適なゲストハウスとすっかりはまった美味しい南インド料理レストラン。
「快適な宿」と「美味しい食べ物」が存在する場所を離れるのは困難なこと。
そんなある日、とあるレストランで知り合った日本人旅行者たちに
「みんなでクンブメーラに行くんだけど、一緒に行かないか?」とのお誘いが。
クンブメーラ?そうそう、ネパールでテレビに映し出されたあのお祭りだ。
すっかり忘れていた!!誘ってもらったのも何かの縁。ちょっと行ってみるか、、、
と軽いノリで一緒に連れて行ってもらうことにした。

夜中にバスでバラナシを出発して約3時間。
訳のわからぬあぜ道で降ろされ、ここから会場まで歩くという。
既に道にはクンブメーラに向かう人で溢れている。道順なんて聞く必要なし。
1時間ほど歩き、会場である河川敷に到着。
河川敷と言っても日本のそれとは規模が違う。
遠く地平線でも見えてしまうのではないかと思えるその河川敷にも
人・人・人。到着したときはまだ夜明け前でそこらじゅうに人が寝ている。
さすがのインドも夜明け前は寒い。
ウシの糞(燃料)売りから糞を買い、焚き火を起こし夜明けを待つ。
夜明け前、もそもそと人々が起きだし火を起こし朝ごはんの準備が始まる。
そう、遠くから巡礼に訪れている、宿を取る余裕のない人々は家財道具と共にこの川原にやってきて
野宿をしているのである。チャパティを焼き始め、水(恐らく河の水)を汲んできてチャイを沸かす人々。
話掛けても英語は通じない。巡礼者はともかくポリスも英語が通じない。
本当にローカルなお祭りのようだ。

夜が明ける。

私もサンガン(ガンジス河とヤムナ河の合流地点)に向かう。
どこまで歩いても人波は途切れることはない。
正直言うと、ちょっと怖い。
これだけの人の中で自分が彷徨っていると、
このままどこまでも歩き続けて消えてしまうのではないか?という感覚に襲われる。
そしてこれだけの群集の目的はただ一つの沐浴。
それに向けられているエネルギーの強さがちょっと怖い。
サンガンまでたどり着く間に私の心の中で、
大きなガラスの塊が粉々に砕けてそれが四方八方に無限に飛び散るビジョンが付きまとう。
どのくらい歩いただろうか?やっとサンガンにたどり着く。
が、すでにイモ洗い状態。
気をつけないといけないのが、毎回このお祭りで何十人、時には3桁の人が圧死してしまうのである。
ひとりが蹴躓いて雪崩式に、、、、というパターン。
まだインドで死ぬわけにはいかないので水辺の近くで持参したクリスタルを沐浴させ、
河の水を容器に詰め頭にチョロッと水を掛けて沐浴終了。
とても物思いにふけって精神統一している余裕はない。
元々列を作って順番を待つ、というのが苦手な国民性のこの国。
河に入っていってもどんどん後ろから押される。危険きわまりないのである。

帰りの時間まではまだ余裕がある。
ひたすら広大な中州の中を彷徨い歩く。
どこを見回しても外国人の姿は見えない。
誰も私に話しかけてくる人はいない——インドではとても珍しいこと———–
恐らく、英語を話せる人がいないということなのだろう。
途中、サドゥ(ヒンドゥの行者)のパレードに遭遇する。
オレンジの袈裟を身にまとったサドゥもいるが、全身灰を塗りつけたふんどし姿のサドゥ、
そして一切布を身にまとっていない全裸のサドゥも。
陰部もオープンにしてしまえば”陰”部ではない、、、ってことだろうか。
最初はちょっと目のやり場に困ったが、だんだんとそれがとっても自然な姿に思えてしまうから不思議だ。

あまり遅くなると帰りが大変なので、ということで午後早く、会場を後にする。
最後に大きな鉄橋の上にのぼり会場を見渡してみることにする。
どこまでも続く河川敷。その河川敷はすべて人で埋め尽くされている。
一生分のインド人に出会った、、、と思った。
「狂ってるよな、、、、」傍らにいた友人が言う。
決してきれいな水とはいえないこの河に、沐浴をするためにこれけの人が集まってくる。
群集を整備しようとしているポリスは「ここを通るんじゃない!」と怒鳴りながら
棍棒でガンガンと人を殴っている。
そこらじゅうで人が野宿をしているし、橋のたもとに行くと排出物の山。
人ごみの中で押されてつまずいて、脱げてしまったサンダルが積み重なって山になっている。
そして裸体のサドゥ。。。。。こんな環境に身を置くために遠くからやってくるのか?
沐浴するために?
確かに狂っているかもしれない。
でもはるばる極東の地から大枚はたいて飛行機に乗ってやってくる異教徒の私達のほうがよっぽど狂ってるかもしれない。

寒さと疲れ、熱狂的な祭りのパワーに負けて、疲労がピークに達する。
バススタンドでバラナシ行きのバスを待っている間、
早く自分のベットに潜り込んで静かな環境の中で眠りたい、、、と思う。
が、バスはやってこない。
「ここ・バラナシ・バス・待つ・O.K?」と周りのインド人に聞いても
「そうだ、ここだ」という割りには2時間経ってもバスは来ない。
インド人の「YES」はたまに信用できないことがある。
なんだか「バスは来るであろう、あなたたちが望むのなら」という感じのYESだ。
すっかり日が暮れ、夜がやってくる。
外にバスがきているぞ、と近くのインド人が教えてくれる。
道に出てみると確かにバラナシ行きのバスだが、既に超満員。定数オーバーの人員が乗り込んでいる。
「ひょっとして、今晩はここで野宿か?」と腹を括ったとき、
ひとりのババに声を掛けられる。
自分もこれからバラナシに帰りたいのだが、みんなで車をチャーターしないか?とのこと。
私達7人とバラナシに帰りそびれたヨーロッパ人2人・ババとその奥さんで車をチャーターする。
バススタンドで待つこと4時間以上。やっとバラナシに戻れる!!
出発!!と同時に車内でババがウィルカム・ガンジャをまわし始める。
ガンガンまわし始める。陽気なババだ。

真夜中のバラナシに無事生還。
ごちゃごちゃ騒がしい街だと思っていたが、
祭りから戻った身には天国のように穏やかな場所に思える。
やっと安全な場所に戻ってこれた、、、、、
部屋に着くなり、倒れこむように眠りに付く。
「祭りのあと」に続く

クンブメーラ

友人が今年初めからインドに行っていて、ようやく帰国した。
写真を見せてもらっていると、見覚えのある一枚の風景に目が釘付け。
クンブメーラだ。
世界中の宗教の祭りの中で最大と言われるクンブメーラ。
友人はこのクンブメーラに行きたくて日程を調整したと言う。
実は私も2001年にこのクンブメーラに行っていた。

ご存知のない方も多いかもしれませんのでクンブメーラの説明を、、、、
ヒンドゥ教のお祭りであり、なんでも宗教的な集いとしては世界最大規模を誇るらしい。

3年ごとにアラハバード・ハリドワール・ウジャイン・ナーシクの4箇所で行われる祭りで
1つの場所では12年に一度の祭り。6週間行われる。
神様がそのむかし昔、不老長寿の蜜の入った壷を奪い合い、うっかり蜜を落としてしまった。
その落ちてしまった場所がアラハバードをはじめとする4箇所だそうです。
2001年のアラハバードはちょうど12年に一度のmaha kumbh mela(グレートクンブメーラ)。
友人が今回行ったのはその中間(6年に一度)であるardh mela(ハーフメーラ)。
ちなみに毎年magh melaとしても行われる。
アラハバードとは聖地バラナシから西へ135キロ、バスで3時間ほどの街。
ガンジス河とヤムナ河の合流地点(sangam)でありこの合流地は魂を浄化する偉大な力があるという。
この祭りの日程は厳密なホロスコープ(インドではジューディッシュという)によって決められるそうだ。
木星がみずがめ座に入り、太陽がおひつじ座に入るとき、、、、らしい。
私が当時、インド人に説明してもらったのは
「太陽と地球と木星が一直線に並ぶのが2001年の、144年に一度のクンブメーラだ」とのことでしたが、
これが「木星がみずがめ座に入り、太陽がおひつじ座に入る」のことなのか、
単なるホラなのかは不明。
とにもかくにも。2つの河が合流し、魂の浄化にとっておきの場所で
12年に一度、もっとも宇宙のエナジーが強まるときにこのお祭りが開催されるわけです。
インド中のサドゥがこの聖なる祭りにやってくるし、インド中から熱心な巡礼者もやってきる。
バスに乗り列車に乗りそして徒歩で「この時」のために、そしてたったひとつの目的—-
沐浴するために——–インド中、いや、世界中から人が集まるのである。

どのくらいの人々がやってくるかというと、公式発表では2001年の1月9日から2月22日の間に
7000万人の人々がこのsangamに集い、沐浴したという。

12年に一度の祭り・クンブメーラ。
私の行った2001年のクンブメーラは21世紀初めてのグレートクンブメーラであり、
144年に一度のもっともパワフルで星回りのよいprayag kumb melaでもあった。
次のprayag kumb mela は2145年。
間違いなく生きてはいない。ご縁があれば来世で再びprayag kumb melaに出逢えるかもしれない。

さて、今年のクンブメーラに行ってきた友人の感想は
「自分がとってもちっぽけな存在だということがよーくわかった」とのこと。
そう、なんとなく言っていること、わかるような気がする。
とてもちっぽけだけど喜びや悲しみを抱えて日々コツコツと前進している愛しい存在でもある。
宇宙のエネルギーがもっとも強い時に、その地を訪れ
たった一つの目的である沐浴をする、、、、、日本は先進国と言われているけど、
もしかして、インドは日本より1周多く廻って日本の後ろに着けているくらい「超先進国」かも。

TAROさんの「いつかの旅」
美しいクンブメーラの写真が掲載されています。
TAROさんという方は先に書いた私の友人のことではありませんが、
この方の作品が一番私にとってのクンブメーラに近い感覚なのでご紹介させていただきます。
久々に6年前のクンブメーラを思い出した。
あれから6年も経っているのか。
少しだけ私のクンブメーラの思い出を書いてみようと思います。

「2001年のクンブメーラ」に続く

バラナシの犬

va_dogfamily

1月・2月は犬の出産ラッシュです。
もちろん野良犬かあさんだってがんばって子供たちを育てます。
誰かがボロ布で犬小屋を作ってくれました。

日本のペットのように犬を溺愛することはありませんが、
野良犬だからって保健所に通報する人もいません。
そこに存在するものを排除することなく受け入れ、共存しています。
そんなインドが私は好きです。

毎朝、白人の旅人がドックフードを持って犬たちに配り歩いていました。
わざわざ自分の国からドッグフードを持参したのでしょうか?
もちろん、この家族も毎朝美味しい朝食の恩恵を受けていました。

バター茶の思い出

チベットと言えば「バター茶」
ミルクティにバターが入っていて、塩味もあるよ、のバター茶。
チャイをこよなく愛する私ですがチャイ+バターはちょっと、、、な私。

なにを思ったか今日、バター茶を作ってみた。
突然思い出すバター茶の思い出、、、、、、、
その昔、インドのチベット圏の町で10日ほど入院してまして。
そこの病院では入院患者さんの食事は家族が食事を持ってきたり、共同炊事場で家族が作ったり。
お昼や夕方になると炊事場は大混雑で、カレーの香りがプーンと漂ってきます。
日中は暖かいお庭で患者さんはじめ、
家族や病院関係者やその他なんだかわからない地元民たちとひなたごっこ。
外国人の私が入院しているのが珍しいのか「なんで入院してるんだ?」「病名は?」などなど質問の嵐。
しまいには看護婦さんがひとりのチベット人のおじさんを私のところまで連れきて、
「この人、あんたと同じ下痢よ!!」と紹介までしてくれた。
ああ、地元の人間でも赤痢に罹るのね、ちょっと安心。
なんだか入院しているというより、インドの長屋に紛れ込んで生活しているような感じでした。

日本なら法定伝染病の赤痢。隔離されちゃう病気。
「ああ、雨季には多いんだよ、赤痢。子供は死んでしまうことが多いけどね、君は大人だから大丈夫。ノープロブレム。」と言ってくれたドクターは180センチを超えるであろうでっかいイギリス人。
子供は死んじゃうのですか?あなたに比べるとワタシ、コドモノタイケイナンデスケド。。。。。
ドクターが死なないって言っているんだからきっと死なない。
随分インド色に染まっているドクターだけど、死なないってさ!!

そんな病院の同部屋にチベット人のおじいちゃんが入院してました。
そのおじいちゃんのところには、
1日2回ほど若いチベット僧侶が食事をんできていて、ポットにはバター茶。

家族もいない、食事を世話してくれる人もいない入院中の異邦人(私のこと)を哀れに思ったのか、
毎回お世話係のチベット僧に「彼女にもお茶をあげなさい」と
言って、そのバター茶をくれるのです。
が、白目はまっ黄色・微熱・暴力的な吐き気と戦っている私にとってバター茶は天敵。
ヤクの乳で作るバターは独特の匂い。匂いが嗅ぐだけで降参。
その頃はまだ私もノーが言えない日本人でしたので、
涙が出るほど気持ちはありがたかったのですが、
涙が出るほど辛かった、、、、、
最後にはそのお坊さんが来る時間帯になると寝たふりしてしまう私。
失礼な私。だったらノーと言えばいいのに、人の好意にノーが言えない私。

ちなみに同部屋には陣痛の始まったインド人女性もいまして
とにかく辛そうにうなっている。
私も結構辛い病状だったけど、彼女も難産なのかとても辛そう。
夜中に泣き叫んでいる彼女の手を握り締めて
「大丈夫だからね、がんばってね!!」と日本語で語りかけていた私。

晴れて10日ぶりに退院した私。
一気に10キロほど痩せてしまい、しばらく移動は不可能。
帰国するにもデリーまで13時間もバスに揺られるほど体力のない私。
とにかく安静第一ということでしばらくその街に留まっていた。
留まっていてもなにもすることがなくて退屈。
散歩のついでに診察に行って病室を覗いたら、おじいさんは早速バター茶を振舞ってくれた。
陣痛で苦しんでいた女性の傍らにはかわいらしい男の子の赤ちゃんが!!
奥さんの陣痛中はオロオロしていた旦那さんはもうニコニコ。

そんな遠い昔を思い出しながらバター茶で一服。