持ち主の処へ旅するクリスタル

ある年のネパール滞在中の時のこと。
インドを旅している友人から
「自分のための、クリスタルを探してくれないか?」とメールがきた。
問題ない。今日からクリスタル探しを始めたところだ。
なんのために使いたいのか?どんな形のものが欲しいのか?
聞く必要はなかった。
メールを読んだ瞬間、すでに彼のためのクリスタルが映像として私の中に入ってきていた。
その形、大きさ、輝き、そして手にしたときの感触。
当たり前のことだが首都カトマンドゥにはクリスタルを扱うお店はたくさんある。
どんなものでも人のために探すのはなにかと迷うものだが、迷う必要はまったくない。
私の中に入ってきたイメージの「そのクリスタル」を見つけ出せばいいだけのこと。

しかし、私が滞在していた時期が悪すぎた。
2001年あたりからネパールは政治的問題で不安定な時代に入っていた。
前国王の射殺事件、そしてマオリスト(毛沢東主義者)の台頭。
3日に一度の割合でストライキが起こり街中の店は閉まる。
デモも頻繁に行われていた。

地方から首都に通じる幹線道路もマオリストの勢力下にあるため、
交通も断続的にマヒをしている。
数日おきに手当たり次第クリスタル屋を覗き、
「新しいクリスタルは入ってきたか?」と聞いてもよい返事は返ってこなかった。
「道が封鎖されていてクリスタルが山から下りてこないんだ」と店主達は口をそろえる。

困ったな。自分のためのクリスタルはすでにいくつも手に入れた。
しかし、友人のためのクリスタルだけがどうしても見つからない。
すでに一ヶ月が過ぎようとしていた。

日ごとに増す寒さ、街中に漂うなんとも張り詰めた緊張感。
そんな状況の中に一ヶ月もいると、やはり堪える。
そこで気分転換も兼ねて、ポカラという街へと脱出した。
マチャプチャレ(という山)が街のどこからでも眺めることができる。
居心地の良い宿を見つけ、日々ヨガと瞑想、散歩を楽しんだ。
毎朝ホテルの屋上で山々と向かい合いクリスタルと瞑想。
いい感じだ。
しかし、だ。あとどのくらいネパールへいるべきか?
友人のための石は見つけ出すことができるのか?今回は諦めるべきか?
ネパールの後、インドに戻るか?それともバンコク経由で日本帰国か、、、、
なかなか答えが出ずにいた。

10日も過ぎようとしていたある日の朝、
「今日の瞑想用のクリスタル」を選び、いつものように瞑想に入る。
その日選んだクリスタルを瞑想に使うのは初めてだった。
そのクリスタルのことを私は「双子の石」と名づけていた。

私の東京の部屋、祭壇に「私の中心の石」と名づけた一つのクリスタルがある。
もちろんネパール産だ。
その石は私の分身、私を映し出す鏡でもある。
(あつかましいが、大変美しいクリスタルである)
もしかしたら、こうありたい、という私の理想の存在かもしれない。

今回出会った「双子の石」は、「私の中心の石」の片割れだった。
陰と陽、月と太陽、、、上手く説明できないが、ペアーの石たち。
「双子の石」はネパール到着の翌日に出会った。
「私の中心の石」の片割れだ、日本に連れて帰ってあげよう、
そして、ふたり並べて祭壇に座らせてあげよう、数少ない帰国後の楽しみだった。

しかし、その日「双子の石」との瞑想中に受け取った言葉は意外なものだった。
「双子の石はあなたのものではない。あなたが探している友人のための石だ」
そんなはずはない。彼の石のビジョンはとっくに受け取っている。
似ても似つかないものだ。違う。
しかし、受け取ったその言葉は絶対的なものだった。

瞑想を終え、部屋に戻る間に既にこれから自分のすべきことは分かっていた。
ネパールを離れよう、今回の用事は済んだ。
しかし、どうやってこの石を旅先の友人に渡したらよいのだろう?
インドに戻るか、バンコクに戻るか?
その前にカトマンドゥに戻らなければならない。
カトマンドゥの常宿に戻ることを伝える必要があった。
インターネットカフェでメールを開くと、
一ヶ月以上音信不通になっていた「新たな石の持ち主」である友人からのメールがきていた。
これからバンコクに戻る、と。

一週間後、私はクリスタルを携え友人とバンコクで再会した。
彼にとってはそれが初めてのクリスタルだった。
少し石についてのレクチャーが必要かと思っていたが、
まったくその必要はなかった。
彼はあっという間にかつて私の「双子の石」とコミュニケーションを取りはじめた。
とても親密に、完璧に。

クリスタルはちゃんと自分の持ち主をわかっているのだ。

クリスタルとの出会い

初めて手にしたクリスタル」を覚えている、そんなクリスタル好きな人は多いと思います。
もちろん、私自身も覚えています。
1991年に出版された「クリスタル・ビギニング」という本。
どういういきさつかは忘れてしまったのですが、
今となっては思い出せない知人からプレゼントされ、
確か初版本にはブラジル産のシングルポイントのクリスタルが付属されていた、、、、
そのクリスタルが生まれて初めて手にしたクリスタルでした。
しかし、クリスタルを見ても美しいとも思わなかったし、なにも感じることもなかった。
もちろん、本の内容も「本当に、こんなことってあり?」という印象を受けただけ。
その当時私にとっては「まだ早すぎる」出会いだったのかもしれません。

私にとっての本当の「クリスタルとの出会い」についてお話したいと思います。

時は流れて6年後の1997年6月。
私はインド山岳地帯のある村にいた。
インドに向かう前の生活といえば、
自活し、働きながら夜間の美術学校に通う生活だった。
少々、その生活に疲れてきたころ、
昔から行きたかったインドに行こう、と思い立ち
仕事の契約更新をせず、休学をし、インド行きのチケットを手にいれた。
、、、、、早い話が現状の生活から逃げ出したかった。

インドに入国して10日。様々な出来事が起こった。
「出会うべき人」に出会い「行くべき場所」に行った。
まるで既に計画済みのプランをひたすら実行しているような不思議な流れの中にいた。
あんなに楽しかったはずの絵を描くことがいつの間にか苦痛になっていたことに気づいた。
日々それなりに充実していた生活が実はとても苦痛だったことに気づいた。
「以前の生活には戻りたくない」と思っている自分がいた。
逃げ出した挙句にすべてを捨ててしまいたくなった。
その一方で、そんなことは果たして可能か?周囲に相当な迷惑をかけるに違いない。
今すぐに帰国したほうがいい、まだ元の生活に戻るのに間に合う、、、、とも考えていた。
インドの山奥で悶々としていた。
どんなに日本から遠く離れても、結局「日本の生活」は悩みという形を取って
どこまでも私を追いかけてくる、逃げることなんてできないのだ。やれやれ。

そんなある日、頭がすっかり飽和状態になった私は
麓の河まで歩いて降りてみることにした。
ニジマスも釣れるほどの綺麗な河。気分転換にちょうどいいじゃなか、と。

雨期が例年に比べると遅かったその年、天気もいいし、
ぶらぶらするには絶好の日和だった。
山道を下っていると、前方から3人のチベット人の女の子達が登ってきた。
上は6歳、下は3歳くらいの女の子達。
とてもかわいかったので写真を撮らせて、と頼んでみた。
カメラを向けると、はにかんではいたけどとても嬉しそう。
その後、珍しそうにカメラをいじりまわす子供たち。もっと撮って、と言う。

突然一人の女の子が私にクリスタルを差し出した。
大人の小指ほどのクリスタル。
下の河で見つけてきたものだと言う。山から流れ着いてきたものだろう。

インドではよくあることだけれど、写真を撮ると「送ってね」とよく言われる。
タチが悪いのになると「写真撮ったんだからお金くれよ」になる。
この女の子はどちらでもなかった。
私にそのクリスタルをくれると言う。
よっぽど撮ってもらったことが嬉しかったようだ。
写真を撮って相手から何かをもらうなんて初めてだった。
なによりもその子の気持ちが嬉しかった。
とても大事なものを受け取ったような気がした。クリスタルに形を変えたなにかを。

その日から貰ったクリスタルを肌身離さず持ち歩いた。
夜になるとそのクリスタルを見つめながらその日一日の出来事を思い出す。
「大丈夫、最後には全て上手くいくから」
「なにも心配しなくてもいいのだから」
どこからともなく聞こえてくるその言葉に耳を傾け安堵し、毎晩深い眠りについた。
結局、その年に私は帰国をしなかった。
当初の予定をはるかに超える長い旅になった。

旅を始めて半年後、ある国に入国した時のこと。
ホテルにチェックインし、荷物をほどいていると
突然、「この旅は、ここで終わり」という言葉が聞こえた。
無意識にいつものポケットにしまってあるクリスタルに手をやろうとすると、
そこにあるはずのクリスタルがない。
いつも同じ服しか着ないので、そこにあるべきなのに、ない。
洗濯だって自分でする。失くすはずがない。
一緒に旅をしてきたクリスタルが姿を消した。
日本に戻ろう、旅は終わったのだ。