猫を保護してもらう、話。

「家猫になる気、満々」で、家猫ガッツと友達が呼んでいたので保護の当日、急遽「ガッツ」と命名

昨年の秋口に排水管の金具が首から抜けず、金具首輪をしていた野良猫をレスキューするために(参照:猫のこと。)猫の捕獲をお手伝いさせていただいていた。その野良猫たちの中で、一際、人懐っこい猫がいた。餌で釣って捕獲器に誘導するのだけど、あっという間にスリスリしてくるようになり、家の中にも入り込むようになった。もちろん、抱っこもさせてくれる。寒い日の朝、窓を開けると、餌を求めるわけではなく一目散に部屋に上がり込み、ホットカーペットの上から一歩たりとも動かない。ちゃおチュールで誘き寄せても動かない。じっと程よい距離を保ちながら、私のパソコン仕事や制作過程をじっと見つめている、猫。

「ごめんよ、ウチでは動物が飼えないんだよ」そう言いながら抱っこして外に放つ。心が痛かった。凍えるほど寒い冬の夜、一晩だけでも家の中で暖を取らせてあげたい、何度も思った。でも私に出来ることは、捕獲し、去勢し、地域猫として見守ってあげることしかできなかった。

先日、動物保護団体の方からこの猫を保護猫として預かることができる、というお話があった。私は即座にOKする。家猫になって安全な場所で生活できるのなら、この子にとってそれが一番幸せなことだろう。威嚇もしないし、人懐っこい。幸せな家猫になれるはず。

保護の数日前に蚤取りの薬をドロップし、保護の前日一晩だけ身柄を確保する。翌日、病院で血液検査とワクチンを打ち、保護家に連れていく、、、という計画。猫トイレも貸して頂き、確保の準備は万全。おい、猫よ、家猫になれるんだぞ。その日の夕方、いつものように窓を開け、いつものように猫は家に入り込む。そっと窓を閉める。確保。

一筋縄ではいかなかった。数時間、部屋の中で大人しくしていたが夜中過ぎ、大運動会が始まった。「外に出してくれ!」と。窓を一枚隔てた外には、「いつもの」居場所があり、仲間たちがいる。ふと気づく。あの、窓を閉めた瞬間、私はこの子の人生を変え、仲間と引き離してしまったことを。たった一枚のガラス窓で。その鳴き声が切なかった。いつもの「餌ちょうだい」の声ではなかった。一時間間隔の大運動会。その度に抱き上げ、添い寝し、言い聞かせる。

「お前は幸せな家猫になるんだよ、絶対に大丈夫だから」

私自身、「できる限り」自由な生き方を選択して生きていきた。自分の意思で住む場所を移動し、行きたいところに行き、生活様式を確立してきた。社会的には全くゼロに等しい地位で、ロクな死に方しないだろうな、とわかっているけど。人生、野良猫。「できる限りの自由」が私の人生での最重要課題だ。そして今も「更なる自由」を求めてもがいている。自分自身の姿が重なった「今までのように自由でいたい」ともがいている猫と。この子はこの先、自分の意思で外に出て、風の匂いを嗅ぎ、太陽の光の眩しさに目を細める、そんな自由で当たり前のこと、が不可能になるんだ、と。それを思うと大鳴きする猫の傍で、私も大泣き。「勝手に”私の幸せ”を決めるな」かつて大人に向かって叫んでいた自分が、ここにいるような気がした。「あなたの為なのよ」その言葉がいかにタチが悪いか、わかっていたはずなのに。窓を開け「いつもの生活」に戻してしまおうか。一晩中、何度も何度も考え思いとどまった。今までの生活がこの子にとっていいのではないか?野良は野良の一生で良いのではないか?牛も猿も猫もそして人間さえも野良的生活が日常に存在する国に通いすぎたせいかもしれない。

翌日、私も恐らく猫も睡眠不足。猫はハンガーストライキを起こしてベッドの下から出てこない。夕方になって、猫を迎えに行く、という連絡がくる。ちゃおチュールで猫を誘き出し、最後の抱擁。「幸せになるんだよ」と。暴れる猫を無理やりキャリーの中へ。嗚呼、こんなことして、この子に嫌われるだろうな、私。嫌われても構わない。そして全て忘れてほしい。私のこと、意味わからず軟禁されたことも、仲間のことも、この猫村のことも。全て忘れて、幸せな家猫になってください。

「安全で敵もない、ご飯もたっぷりもらえる環境の中で、飼い主に思いっきり甘えられるようになるんだから」と友達に慰められる。お手伝いをさせていただいている猫ボランティアの方にも「仲間から引き離すのは本当に辛いけど、新しい家に引き取られ、幸せに暮らしているって報告を受けると保護してよかった、って思えるから」と言われる。そう、元々私がホットカーペットの上から離れなかったこの子を無理やり外に放っていたんだ、寒い屋外に。このほうがいかに残酷だったか。

「何が幸せなんだろう」猫を通じて考えさせられた数日間。きっと、生き方次第のような気がする。何を選択して、どう生きるか。ただ、猫にはその選択権はない。その選択ができるのは、人間の特権なのかもしれない。だからこそ、選択を与えられなかったこの猫には幸せになってほしい。

生きとし生けるもの、幸せになる権利がある

私も幸せでいることを選択した。「幸せになる」のではなく、「幸せでいる」ことを。