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五反田での催事が終わって、台風が去ったあと、
我が家の裏の崖が、静かに・穏やかに崩れた。
家が全壊や半壊なら、何かしらの公的助けを求められるんだろうけど、
今回の状況は「自主的避難」レベル。
ここに住んでいて安全なのか?大丈夫なのか?
自分で決断するしかなく、そして私は、ここで眠ることができない、と判断する。
「大丈夫?」と多くの人から尋ねられたのだけど、何が大丈夫なのか、大丈夫でないのか、
まったくわからない状態で、「なんか、わからない」と答えるのがやっとだった。
ただ、ここで眠ることはできない、そう判断した。
そんな私に手を差し伸べてくれる人や組織がそばにあり(正直、びっくり)
ただいま、そんな周囲の善意に甘え、避難生活中。
「旅をしていると思えばいい。数日ごとに宿を変え、フラフラ旅をしてきたし」
そう気持ちを切り替えようとしたけれど、
旅は安全で、私の帰りを待ってくれている(消滅しない)、戻る場所があるから
呑気にフラフラできるわけで、それを失うというのは、こんな気持ちになるのか、と痛感。
安全な、戻る場所があるというのは、こんなにも素晴らしいことだったんだ、
当たり前のことだと思っていたけど、ちっとも、当たり前ではないんだ。
、、、少なくとも、今の私には。
多くの自然災害が人々を襲う。一瞬にして家を失い
体育館や避難所で暮らす人を、私はテレビでしか見たことがない。
とりあえず、安全な場所にたどり着けてよかったね、
人はそう思う、私だってそう思っていた。
安全な場所にたどりついた、よかった、確かにそうだ。
でもそれでは話は済まない。
安全な場所にたどりついたのち、これからどうなっちゃうんだろう?という
漠然とした不安に襲われる。この「漠然とした」不安というのは、
ボディーブロウのようにじわじわと「効いて」くる。
避難生活で心身ともに疲れ、
鬱になったり自害してしまう人の気持ちが理解できる、今なら。
私はこの先、「死なない程度」に生きていくんだろうな、
そしてなんだか周囲に人々の善意が溢れていて、安全な我が家は今、ないけれど
心温まり、周囲にいてくれる人々が、実は人間じゃなくて
神様なのではないか?と思え、何かに守られている感を、ものすごく感じる、
帰る家、ないけど!!
望んでないのに、新しい場所での生活のために動き出す。
一生、定住なんてできないのかもしれないな、自分の意思は関係なく
放浪するかのように生きていくのかもしれない。
「それも、案外悪くない」
3か所目の善意の下で、ふとそんなことを思う2週間目の避難生活。