握り石

集中して文章を書いたり、絵を描いたりするときにググッと握り締める石。
形状は様々ですが、握り締めたときに手に吸い込まれるような感触の石です。
物事を集中して考えるときに使うのだけど、実はまったくその逆で物事に集中なんてしてないで、
頭が真っ白になる。で、しばらくするとぱっとアイデアが浮かんでくるんです。
以前、とあるチャネラーの方がチャネリング中にクリスタルを握り締めているのを見て、
ああ、チャネリングってのももしかすると頭を真っ白くさせるものなのかも?
と思ったことがあります。

最近、どうも文章を書くときは両手でパタパタとキーボードを叩いてしまい、
握り石を使うことがなくなってしまったのだけど、
お店のサイトを構築するにあたり久々に握り石が登場したわけです。
しばらくケアしてなかったな、、、、ごめんね、と言いながら。

2、3日握り石のお世話になって気が付くと
「あれ?この石ってこんなにきれいだったかな?」と思うほど
輝きが増してきた。ちゃんと使ってあげないと石って眠ってしまうんですね。本当に反省。

ちなみに只今愛用のこの石は眠るときも握っています。睡眠を邪魔しない穏やかな石です。
横になって石を握って意識を集中させる。
すとーんと眠りに落ちて、結構な確立でとてもクリアな夢を見ます。
その夢も何かを暗示するような、日ごろ悶々と立ち止まってしまっている物事の
解決策のヒントとなるような夢。
目覚めてみて、「うん、うん、なるほどね、そうすればいいのか」と。

石も飾っておくだけではもったいない。
生活に取り入れると石自体も活性化しますので興味のある方は是非。

Give and Take

先日書いた「不法入国に成功した人」に遭遇した後
ずっと自分の初めてのインド旅行を思い出していた。

初めての一人旅がインド
まったく英語が話せない
情報もインターネットのなかった時代、たよるは某旅行ガイドのみ
まったく無知で、故に怖いもの知らずの勢いだけはあった。
持ち合わせていたのは、ただ「インドに行きたい」という気持ちだけ。
一番やってはいけない「真夜中のデリー空港到着」もした。
お約束通り(?)空港でひと悶着あったが、
金品・命を失うことなし、旅行代理店に連れていかれて高いツアーを組まされる訳でもなく
デリーのホテルで朝を迎えることができた。
翌朝、周りの旅行者に「エライ、よく無事にここまで辿りつけた!」と握手をされた。
何故、そんなに褒められて握手をされるのかがわからない。
無知だったからだ。
日本の安全な世界しか知らなかった私はなにが「あぶない」のかがわからなかった。

道中、随分色々な人に助けられた。
様々な人が手を差し伸べてくれた。
日本人旅行者だけでなく、他国の旅行者、もちろんインドの人々にも。
赤痢で倒れ、入院し動けなくなった私をイギリス人の姉妹がなにかと世話をしてくれた。
限られた時間の旅で、自分達の旅行計画を変更してまで。
心苦しくなった。
与えられっぱなしで、自分はその人達になにも与えることができなかったから。
Give and take ではなくて、ひたすら take take take だった。
勿論、なにかを与えたくとも私にはなにも与えるものなんてなかった。
周りは旅慣れた人ばかりだったし、私の旅情報なんてとっくにみんな知っている。
私が流暢な英語でも話せるなら、言葉で困っている人を助けられるかもしれないが、
見事なほど英語を話せない。
随分と落ち込んだ。「これも人徳ってヤツ?」と開き直れるほど根性も座ってなかった。
落ち込むたびに私の手元にやってきたクリスタルに話かけていた。

そして、ある日、、、というよりある瞬間に閃いた。
「私は手を差し伸べてくれた相手に対して、なにも与えることができなかった。
でも、もしこの先、誰かの助けを必要としている人が目の前に現れたら、
進んで手を差し伸べよう、それで「チャラ」にできるのでなないか?」と。
自己流のgive and take。

今でも道中、まだ旅のコツをつかめなくてオドオドしている人や、
パニックに陥っている旅人に遭うと、
どれだけ心細いのか、どれだけ緊張しているのかが手に取るようにわかる。
怖いもの知らずで、勢いで飛び出してきた昔の自分がそこにいる。
とても素通りすることはできない。

***********************************************************

今読んでいる本にこんな一文がある
「恐れは自分が恐れているものを引き寄せる。泥棒を恐れれば、泥棒はやってくるだろう。
火事を恐れれば、火事の被害者になるだろう。(中略)
悪魔を恐れるなら、悪魔はあなたの中に姿を現すだろう。(中略)
あなたが悪魔から逃げている間中、それはあなたの影のようにあなたについて回るだろう」
Luc Bourgault著「american Indian secrets of crystal healing」 page47 “aquamarine”

無知で怖いもの知らずだった私。
それ故に良き出会いに恵まれ、旅をすることができたのかもしれない。もしかすると。

今現在はどうか?
道中、様々なトラブルを見聞きしてきた。
親しい人間がトラブルに遭遇し、その痛ましい現状を目の当たりにもした。
旅慣れた分「恐れ」が私の中に蓄積された。
正直、昔より構えて旅をすることが増えたような気がする。
それをどのように打ち破っていくかがこれからの課題のような気がする。

旅先でのハプニング

色々な国を旅していると様々なハプニングがつきものです。
それを旅人同士「こんな目にあった」「あんな目にあった」と
酒の肴に笑い飛ばすひと時もまた楽しいもの。
また、日本ではなかなかお会いできないような人格者に出会えるのも旅ならでは。
私も10年近くインドに通わせていただいているので、多少のネタは持ち合わせている。
インドで出会った「久々の大ヒット」のお話。

それはインド・デリー空港での出国時のこと。
出国手続きの為に長い列に並んでやっと私の番がきた。
無事スタンプを押してもらい、ブースを離れようとしたら、
係員に、「英語は喋れるか?前にいる英語の話せない日本人の通訳をしてくれ」と言われた。
その場に行ってみると、初老の日本人男性がひとり。
どうなさったのですか?と聞くと、
「スタンプがないから、、、、飛行機に、、、、係の人がパスポートを持って行った、、、わしにはようわからん」
私にもようわからん。
彼のパスポートを見ながら話合っている係員達を掴まえ、話を聞いてみると、
彼のパスポートにはインドの入国スタンプが押されていない、どうしてなんだ?これでは出国はできない、と言う。入国スタンプがない?なんのことだ?
その男性に聞いてみる。「えーと、4日前にインドに来ましたよね?空港に着いて、荷物を取る前に、こんな感じのパスポートを見せるところがありましたよね?そこで、パスポートを見せた時にスタンプを押してもらいませんでしたか?」
すると、その男性は、「あぁ、確かあった。でも早く荷物を取らなければいけないと思って素通りした。誰にも止められなかったですよ。」!!!!!!

少し説明すると、成田空港の出入国審査場はブースが横一列に並んでいるので、
素通りなんて基本的には不可能ですが、
デリー空港では、ブースが縦二列、それが五つくらい並んでいる。
よって素通りしようと思えば「前のブースで審査を終えた人」のふりをすれば
それも可能と言えば可能。そして係員のほうだってまさか身なりのいい日本人が
入国審査を素通りするとは思わない、、、、だろう。
でもこの方はそれをやってのけた。すごい!

感心してばかりいられない。それって、不法入国?密入国?その由を係員に伝えると、
「彼の入国履歴は我政府に残されていないのだ!このままでは出国できない!」
慌ててどこかに消え去る係員。まさにインド人もびっくり。私だってびっくりだ。
ちっとも慌てていないのは本人だけ。
「明日には所要があって、、、、今日中に日本に帰れますかね?」
そこを動くな、待っていなさい、と言われてしまっては私も一緒になってまっているしかない。しばらくお話の伺っていると、
その男性は仏教遺跡を見たくて、一人で来印。初めての海外旅行。
ツアーでの旅行が日程的に合わなかった為、
旅行会社にプランを作ってもらい、専属ガイド付き、車をチャーターし4日間の旅を終え、帰国するはずたった、、、とのこと。
「インドにもう一泊しないとだめでしょうかね?明日の便になってしまいますかね?」
一泊どこじゃないよ!不法入国者!とは言えず
「日本国籍ですから・・・大丈夫ではないかと・・・」と訳の分からぬことを言ってしまう私。

約30分後、係員が戻ってくる。
よくわからないが、普通の出国スタンプのほかに、
見たことのないスタンプと誰かエライ人のサインがされたパスポートを
男性に渡し、大丈夫、行ってよし、とのこと。よかったよかった。
「本当に助かりました」とお礼にマルボロを一箱いただく。70ルピーもする高級タバコ。
こちらこそありがとう。

チベット医学

チベット医学をご存知でしょうか?
インドのアユルヴェーダと中医学の影響を受けたと言われているチベット医学
これを説明し出すときりがない、、、
というより知識不足のため説明ができないだけなのですが
知識よりも体験、ということで、私が経験したチベット医学をご紹介します。

カトマンドゥで風邪をこじらせた。
ネパールの前に滞在していたインドで「少し風邪気味かな?」と思っていたが、
ネパールに到着して寒さと排気ガスによる空気の悪さで更に悪化した。

発熱はしていなかったが、とにかく咳がひどい。
咳のしすぎで腹筋背筋が筋肉痛だ。
ここ3日間、咳のせいでまともに寝ていない。
気管支の弱い私は慢性気管支炎になってしまうことを恐れていた。
インド製の咳止めシロップを飲んでみたがちっとも咳は止まらない。
いつも旅に出る時には日本製の薬を持っていくのだが
今回だけはなぜかそれを怠った。
弱ったな、じきに肺が破れるのではないか?
そこでネパール在住の知り合いにチベット医学の病院(というか診療所)を紹介してもらった。

チベット人医師の自宅(多分)にある小さな診療所だった。
午後一番の受診だったがチベット人の患者さんが数人受診待ちをしていた。
まずは問診。
症状は?食欲はあるか?下痢はしていなか?などなど一般的な問診のあとに脈をとる。
じーと、集中してひたすら脈を取る。
ふんふん、とうなずいた後、処方箋を書き始めるドクター。
「4日分の薬を出します。4日経っても良くならなければ、また来て下さい」とのこと。
正味5分もなかったと思う。

別棟の医局で処方箋を渡し、薬を貰う。
確か300ルピー(500円弱)支払ったような気がする。
薬代のみで診察料は無料。無料というか、診察代はドネーション(心づけ)ということで
ドネーション・ボックスが置いてある。
どの位心づけをすればいいのかわからず、とりあえず100ルピーほど箱に入れる。
「学生、チベットから着たばかりの方(難民という意味だろう)は無料です」と言う意味のことが書かれている。
勿論、この学生と言うのは外国人学生旅行者のことではない(多分)
現地の学生っていう意味のことだ。
この無料というのは診察代が無料なのか、薬代も無料なのかちょっとよくわからなかった。
(なにか書いてあったが、こっちも体調が悪いので英語を読むのが面倒だった。)
まぁそれにしても、気持ちの良いポリシーだ。

渡された薬は朝昼晩の一日三回服用。
大小様々なウサギのうんこのような丸球。色からしてもうんこだ。
それぞれ微妙に色も違うし、匂いも違う。
草原の香り、、、と表現すれば格好がつくが、ようは草の匂いである。
玉が大きすぎて飲み込めないようなら、砕いて白湯で溶かして飲んでくださいと言われた。
もちろん、こんな大きい玉は飲み込めない。
白湯に溶かしてまずは一回分を服用するが、
とにかくまずい!苦い!青汁以上である。
本当にウサギのうんこだったらどうしよう、もしかした牛かなぁ、と不安が過ぎる。
これを一日三回、4日間も飲み続けると思うと憂鬱だ。
まぁ、効かなかったら今度はちゃんとホスピタルに行けばいいのだし、、、、
さて効果はどうだったか?
これがバッチリ効いたのである。
昼、夜と服用し、床に就いたが、咳がぴったりと止んだ。
その代わり一気に熱がでた。
多分、38度は超えていたと思う。
平熱の低い私は38度を超えると思考能力が止まる。パーになるのである。
「ウサギのうんこってのも役に立つものだなぁ、日本でも試してみよう」と
イカれた頭にはそんなことしか浮かばない。
全身汗だくである。風邪を引いてしまうから着替えよう、(既に風邪は引いているのだか)と、
ズボンを頭から被ろうとする私。なにやっているのだ?
熱にも苦しい熱と心地良い熱がある。
後者の熱というのは「浄化のための熱」(だと自分では思っている)
毒素が体から放出される感覚が伴う発熱。まさに今、その発熱の中にいる。
「ウサギっていうのもは、、、、、すごいなぁ」イカれた頭でウサギに感謝しつつ
ベッドに沈むように、どこまでも深い井戸に落ちていくような感覚の中、深い眠りにつく。

しばらくしてドアのノックの音で目が覚める。
ホテルの従業員がスープを持って立っている。
心配したホテルのオーナーが部屋に届けるように指示したらしい。
真夜中に申し訳ないと思いつつありがたくスープを頂く。
いや、違う。真夜中の2時ではない。今は午後の2時だ。
昨晩は9時に寝た。私は17時間も寝ていたことになる。
既に熱はない。ちょっとフラフラするが体が軽くなっているし咳も出ない。
すごいぞウサギ、ではなくてチベット医学。

その後、めきめきと回復していく。
3日目には「もう苦い薬は飲みたくない」という余裕が出てきた。
アユルヴェーダ、漢方などは即効性はない、と聞く。
しかし、西洋医学の薬を服用してもこんな即効性は期待できない。
たまたま偶然その晩に浄化の熱が始まったのか?
その後もチベット医学にお世話になる機会がないので比較することもできないが、
少なくとも浄化の熱を誘発する作用があったと思う

ウサギのうんこ呼ばわりして申し訳なかったな、と反省。
しかし今でもウサギを見ると「あの時はありがとう」と無意識に感謝してしまう自分いる。

今、この一瞬

「今、この一瞬に集中をすること。全てが明らかになる。
求めていたもの、打破したいと思っていたこと、いろいろなことが。」

先日、新商品のアップを終えた晩に、夢の中でこんな声が聞こえた。
「この一瞬に集中すること」の意味。、、、、なんとなくわかる。
私たちは普段、頭の中でいろんな思いが過ぎる。
やって来るかわからない未来への不安に支配されている自分。
過ぎ去ってしまった過去への後悔に支配されている自分。
振り子が未来へ、過去へ大きく揺れて「今・現在」に振り子は静止しない。

それは、わかる。

でもなんで「全てが明らかになる」んだろう???
その昔の、親友との会話を思い出す。
「何かを変えたい、と思うなら、今、この瞬間に出来るんだよ。本当にそうしたいのなら、ね」

私が人生の中でつまずき、身動きできず、ただひたすら時が過ぎるのを待っていたときのこと。

私:「勿論、変えたい。こんなところに留まっているなんて、イヤだ。
でも、全てのことには ”その時”というものがあるのではないかな?」

友:「”その時”っていつ?なんで待たなければならないの?
占い師がそう言った?それとも預言者?占星術???
運命なんて、星の動きなんてクソ喰らえだ。あなたは誰にも、星にも運命にも支配なんてされていな い。自分が何を望むか、どうしたいか、それだけなんだよ。」

私:「どうしていいのかわからないことだってある。動きたくてもどうしていいのか、、、そんな時は、じっとしているしかないのではないかな?」

友:「何事も恐れないこと。そして少しの勇気。未来を恐れない、過去に縛られない。そうするといろんなものが開けてくるんだ。今、この一瞬だけに焦点を当てるんだ。”今、自分の望むもの ”にね。」

望んでも手にすることができなかったもの、、、今までの人生でいっぱいある。
努力もした、だけど手にすることはできなかったもの。

私の中で、「絶対に必要なもの」「どっちでもいいもの」「必要ないもの」が既に決められている。
「絶対に必要なもの」は向うからやってくる。
「どっちでもいいもの」は努力をすればなんとか手にできる。

「必要ないもの」、、、、
それは、どんなに努力しても渇望しても手に入れることはできない。まるで、「あなたの人生に、それは必要ありません」と運命に言い渡されたかのように。

、、、、いつのまにかそんな風に考えるようになった。

そんな私に友達は「一瞬にして変えられる」という。まるで魔法のように。

「あなたのような生き方を、全ての人ができるわけではない。
準備の出来ていない人だっている。(私もきっと、そう)ただ、その場所で耐えるしかないのではないかな?」

友達はとても悲しそうな顔をしていた。

そんな会話から何年も経って、夢の中で、友達と同じ言葉を聞く。
「今、この瞬間に集中すること」と。

そして「今、一瞬の集中」の背後に次のステップが用意されていること、、、、
それが気配としてはっきりと感じられる。

過去へ旅している自分と未来に旅している自分。
それを今、この瞬間の自分と統合させること。。。。たぶん、これだ。

どうすれば、いいのかな?
まったく途方もないことのように思えるけれど、多分、方法は見つかるはず。

光の柱、アクアマリン、カヤナイト、、、、、
3つの賢者が私の夢にアクセスし、大事なことを教えてくれた。

石の言うことは素直に聞ける私。
人の話は素直に聞けない私。

あなたのように生きることはできない、、、、そんな言葉で友達を否定してしまったことに、心が痛む。

今、やっとあなたの言葉を受け取ることができました、、、、
伝える手段のない相手に対して、私は月にむけて話掛ける。
同じ月を見ているかな?
遠い異国にいるのなら、、、、明日の晩にメッセージが届きますように。

エナジーと繋がる

遠い昔のインドの旅の途中で知り合った、ある人。
移動中のバスの中、眠りに着く前、いつもいつもある一冊の本を読んでいた。

世界中を周り、様々な宗教に触れ、自分の内面を旅して学んできたこの人。
大地と、宇宙と、しっかり繋がっているこの人。

「なんでまだ本を読むの?もう、知識はいっぱい詰め込んでいるし、
自分の中に深く入って行くこともできている。もう、本なんて読む必要がないんじゃないかな?」
それとなく聞いてみる。

「そう、何度も何度もこの本を、暗記するくらいに読んだよ。
だから、新しい知識が欲しくて読んでいるわけではないんだ。わかるかな?
この作品を読んで、この作者のエナジー、思想というエナジーと繋がるために読み返しているんだ。」

それは美しい小説を何度読んでも感動する、っていうのと同じかな?

「う~ん、似ているけど、ちょっと違うかな。」

本の登場人物になりきってしまうこと?

「例えば、敬虔なクリスチャンはいつも聖書を読んでいるよね。
聖書を通して神と繋がるために、”繋がるから”読んでいるんだ。わかる?
ムスリムにとってのコーランだってそうだよね?人にはそれぞれ何かに繋がることができる”聖なる書”があるんじゃないかな。」

、、、、ごめんなさい、ますますわかりません、、、、、、

随分昔に交わした会話。
今、やっとその人が言っていたことが、わかる。

いくつかの本を読んでいると、、、、本の中で本人が直接私に語りかけてくれているような気配を感じる。
ある瞬間、背後にすっと、なにかの気配を感じる。
飛び出す絵本のように、本を開いて読んでいるとその出来事のエナジーが私に向かってくるような感覚。
それは励ましだったり、戒めであったりするのだけれど。

本は知識を得るだけのものではない。
しっかりと、作者の言わんとしている思いに繋がり
自分自身の中で再認識すること。
そんな読書のしかたを発見すると、やっぱり書物ってすごいな、
文字が読めるって便利なことだな。

持ち運んで、好きなときにそのエナジーと繋がることのできる魔法のツール。

新しい本の読み方を学んだ私でした。

白い手と、シヴァの手

ある瞑想のトレーニングに参加したときのこと。

私たちは行者として床に座り瞑想をする。
そのうちのひとりが立ち上がり、シヴァ神となる。
そしてに瞑想をしている行者ひとりの肩をポンッと叩く。
肩を叩かれたら、それはシヴァに呼ばれた合図。
右手を高く挙げ、シヴァに引き上げてもらう合図を送る。
シヴァはその人に手を差し伸べ、立ち上がらせる、、、、
立ち上がった人は、今度はシヴァとなり瞑想を続けている行者の肩を叩き、引き上げる、、、、

特別興味が沸いてきたわけでもないその瞑想。
中盤くらいになって私の肩がポンッと叩かれた。シヴァからの合図。
右手を高く挙げ、引き上げてもらうのを待つ。
参加している誰が引き上げてくれたのかはわからない、暗闇の中だから。
暗闇の中で私は眼を閉じて、座り、引き上げてくれるその手だけを頼って立ち上がる。
今度は私がシヴァとなって、誰かの肩を叩き、引き上げる。

シヴァの役目を終えて、壁際で座り、瞑想を続ける。
そんな中、昔に見た夢がこの瞑想とリンクした。

広い暗闇の中で私は一人、その場に座ったていた。
なにも聞こえない、見ることのできない暗黒の世界。
突然、上空から大きな手が差し伸べらてた。
真っ白に輝く、大きなその手。
差し伸ばされたその手に必死で手を伸ばしている自分。
ここから救い出してくれる大きな、輝く手。
どうしてもその手を取らなくてはいけない。
必死で私も手を伸ばすのだけれど、その手を捕まえることができない、、、

、、、そんな夢だった。
夢から覚めたあと、ものすごい悲しみが襲ってきた。
ひとりぼっちで、暗黒の世界にいる自分をこの世界から引き上げてくれるはずのその白い手。
それを掴み損ねた自分。
もう2度とその手は現れないのではないか?
自分は一生、この暗黒の世界で生きていかなければならないのではないか?
虚しさと悲しみがこみ上げてくる。
大人になってからこんなに悲しい夢をみたことはなかった。

その夢の続きが、現実の世界で、私の元にやってきたような気がした。
あの輝く手はシヴァの手として形は変わっていたけれど。
私に深く関わる女神・ドゥルガー。サイトのトレードマークにもなっている。
シヴァの妻の化身でもあるドゥルガー。
、、、うまくリンクされているな。

シヴァに引き上げられた私の右手は今でも時折、ものすごく熱を持つ。
「あなたはシヴァの手を掴むことができました」という合図のように。
引き上げられた私は、今どんな世界にいるのだろう?

そしてもう2度とあんなに悲しい夢を見ることはないと思う。

美しきクンツァイト

 

K

私自身のプライベートコレクションの中に存在していなかった石でありまして、
手に取るのは初めてなのです。
もちろん、お店で手にしてみたり、友達のコレクションを見せてもらったりする機会は
今までたくさんありましたが、
「キレイな石だね、以上終了」という感じで入手するに至らなかった石。
クンツァイトについて知っていることといえば、

1、ハートチャクラに有効な石
2、断面から見るほうが色が濃い
3、太陽光線で退色のしやすい石

、、、、、、たったこれだけ。
これではいくらなんでもサイトではご紹介できない!!
本やネットでこの石についての情報を調べてみないと、、、、と思ったのですが、
私にとってはまったく未知の石。
一切の情報をインプットせずに白紙のままこの石とコミュニケーションを取って
自分が感じるままの言葉で紹介するのもいいのでは?

そんなわけでしてこの石から受け取った感覚を言葉に変換してのご紹介です。
ショップのほうには来年早々にアップする予定です。
只今、個々の石をぐぐっと読んでいる最中です。
あくまでも私が感じ取ったクンツァイト、ということで、、、、、

::::::::::::::::::::::::::::::::::

ローズクォーツほど甘くなく、ラベンダーアメジストほど高貴でもない、
ちょうどその中間点に位置する色合い。
実際手に取ってみるととてもハイオクターブなエナジーを発しています。
カルサイト・カヤナイト・セレナイトと似たエナジー。
ハイオクターブな石は肉体に光を差し込ませる・そして繋げる役目だけれど
クンツァイトはその光をいったん吸収し、膨張させる石。
そして肉体に働き掛けるというより、肉体の周りを取り囲んでいる
その人が発しているエナジー(オーラと言ってもいいかも)に作用しそうです。
この石を手にして太陽の光をすくい取るように当ててみると、、、、
光のシェルターにすっぽりと覆われた感覚になります。
とても安全で、穏やかな光のシェルター。

ハートチャクラの石、と数少ない情報を元に直接ハートチャクラの上に置いてみても、
体内にあるチャクラで感じるのではなく、
チャクラから上空5センチくらいのところで、なにかもそもそと変化が感じられます。

仕事場に置いてみると明らかに部屋の空気が違う。
クリスタル置き場となっているお部屋が幾分柔らかな雰囲気に。
新入社員が入ってきて職場の空気がちょっと変化したような感じ。
男性だけの職場に女性社員配属されてきた!あの感じ。
未知の石をお部屋に置くと、いままでとの違いがはっきりとわかります。

ついでに、、、、
この未知の石であるクンツァイトを仕入れた帰り道の電車の中での出来事。
とても懐かしい「なにかが」私の肩に触れた気がした。
このエナジーはなんなんだろう?意識を自分の肩に向けてみると、
昔の親友、知人たち―――――それも今は亡き親友、知人の懐かしい姿が脳裏に浮かんだ。
フラッシュバックのように遠い昔の出来事が断片的に私の心で蘇った。
特別印象に残った出来事ではない、日常のささやかな出来事。
思い出にも残らないであろうことが私の奥深くから目を覚ました。
消しゴムを忘れた私に隣の席だったその子がそっと自分の消しゴムを差し出してくれたこと。
重い給食バケツを運ぶのを手伝ってくれたこと。
ヘビーなランニングのあとへたり込んでお互い目を合わせて笑ったこと。
ご飯を食べに行って「美味しいね、美味しいね」と「美味しくて幸せ!」を分かち合ったこと。。。。。。。。
今は亡き人達が差し出してくれてたちょっとしたやさしさや気遣い、
分かち合った楽しい思い出。それは大きな意味での「愛」だったのだな、と気づく。
どうしようもなく泣きたい気分になった。
昼間の山手線の車内、いい歳したオンナがいきなり一人泣きするわけにはいかない。
ぐっとコートに顔を埋めて寝た振り。涙止まらず寝た振り。

愛は求めるものでも、探すものでもなく「気づく」ものなのかも。
いつだってささいな出来事の中に愛は存在する、私の周りに。
ちゃんと気づくことができれば、人生って寂しいものにならない気がした。

 

会いたいな、、、、今、彼らが生前の肉体を身にまとい、私の目の前に現れてくれたなら、、、、
切実に、亡き友に会いたい、と思った。
その反面、今こうやって私の心の中に彼らは生き続けている、
そして彼らが与えてくれた愛を、私はしっかりと感じることができる。
目に見えることが重要ではないんだ。
まるで彼らが目の前にいるかのように私はしっかりと心の眼で彼らを「見て」いるのだから。
すっと肩の力が抜けた気がした。

愛の石、クンツァイト。
亡き友の愛・クンツァイトの教え

山での出来事~ダージリン・シッキム 3~

お返しに、、、という訳ではないけど、今度は私がヤクさんの頭に手を載せてみる。
頭脳明晰な頭の持ち主――― きっと会社なんかではバリバリと仕事をこなすタイプなんだろうな。
ちゃんと地に足を着けることが出来る人なので、
どこにいても自分の心地よい居場所を見つけることができる。
外見も美しいし、なにもしなくとも人が寄ってくるタイプ。特に異性がウヨウヨよって来るタイプ。
旅をしていると、たまにこの手のタイプの人に会う。
別にドロップアウトしなくても実社会でちゃんとやっていけるのになんで?っていう人。
社会不適合者だけがドロップアウトしているわけではないという世の中。不思議。
手を胸の位置に置いてみる。
相当オープンな心の持ち主なので、ハートのチャクラだけは問題なさそうなんだけど、
かすかな「ひずみ」がある。なに?このひずみ?意識を集中してみるとなんだか苦しそうな表情になる。
どうしていいのか分からないので、ここで終了。
「癒しの手を持っているんだね、もっと人のために使わないともったいないよ」
私の手が癒しの手?確かに子供のころから肩揉みはうまいと親戚から褒められていた。
でもただの肩揉みである。
「私の手が癒しの手なら、世の中の人、みんな癒しの手の持ち主なんじゃないかな?」

こんな感じで数日間、ダージリンのドミトリーはヒーリングルームと化した。
不思議なことにやればやるほどお互い感覚が鋭くなっていく。
たとえば相手がほんの一瞬頭によぎった思いがなぜかキャッチできるようになる。
そう、急に「いや、その考えはおかしい!」と「うん、私も今それを考えていた」
言葉を使わない会話が成立してくるのが不思議。
そしてある日ヤクさんが言った言葉。
「ねぇ、あなたのカラダの奥深くに虎がいるんだよ。獰猛でものすごくエネルギッシュな虎。
でもね、今はまだ眠っている。そう、sleeping tiger。」
そんな感じで数日ダージリンで過ごし、もっと先のシッキムまで旅の連れとなる私達。
別々の宿を取っても、なんだか街角で再会したりして「じゃ、山登りにでもいきましょうか?」
「隣村まで行ってみよう」そんな感じで山登りやヒーリングを楽しんでいた。

そんなある日、朝起きた瞬間に「山を降りなさい、もう目的は達成されました。」という言葉が聞こえた。
、、、、確かに次の目的地があると言えばある。1ヵ月後にはネパールで友達と再会予定もある。
でも、、、こんな居心地の良い山の中、もう少し滞在したい。
この村にも慣れてきたし、他の旅人との楽しい出会いもあった。
もう少し滞在したい、、、、、でも、、、、
心の声にはちゃんと従わなくていけないことを経験から既に学んでいる。

旅の途中で知り合い、そして別れてそれぞれの旅路に進む。
何度も何度もそんな経験をしてきたけど、やっぱり楽しい時間を過ごしてきた人々とお別れするのは辛い。
「また、何処かで会おうね」さよならの代わりにそんな言葉を掛け合うのだけれど、
多分、再び会うこともない旅人たち。

ヤクさんにも挨拶していかなきゃな、でもやっぱり辛いな、、、黙って出発しちゃおうかな、、、、
ぼんやり考えながら村を歩いていると、前方からヤクさんがやってきた。
「あさって、山を降りることにしました。楽しかった、今までありがとうね」
「そうか、、、、だったら明日、ウチに泊まっていかない?美味しいレストランもみつけたんだ」
(そのころヤクさんは山の上で一軒家を借りて深い瞑想と山登りの修行の最中でした)
お呼ばれされて翌日山の中の一軒家を訪れた。
なんとも不思議な空間。周りの木々がものすごいエネルギーを発している。
「完全な調和」が取れている小さな空間。
、、、、こんなところを発見したヤクさんはやっぱりタダ者ではない。
水道も電気も通っていない山の中の家で長い時間語り合う。
「今度、生まれてくるなら私はこんな山の中に生まれてきたい。
都会や流行の遊びなんて知らなくていい。ただ山の自然に囲まれて穏やかに生きて死んでいきたい」
そんな来世への抱負?を語る私にヤクさんは
「自分は、、、、もう生まれ変わってこないような気がする。
今までたくさんの転生を重ねてきたことは分かっている。
でも、、、、自分には来世は来ないような気がしてならないんだ。
多分、これが最後の肉体の中の存在になるんだと思う。だから今、こうやって世界中を旅してたくさんの人との出会いを経験しているんじゃないかな?」

2度と会うことのない旅人同士。
ヤクさんには「また来世で会いましょう」とも言えない訳か。
私はまだまだカルマがいっぱいでまた生まれ変わってくるよ、きっと。
う~ん、この別れが益々辛くなってしまう。。。。。

横になってもほとんど眠れない時間が過ぎていった。
山を降りたら何処にいこうか?そこで何が私を待っているんだろうか?

ベットの正面に大きな窓がありそこから額縁に入ったかのように山が見える。
そろそろ朝が生まれる時刻だ。
ベットの中でぼーっと窓から見える山をみていると、、、、、、、、
その山から朝日が昇ってきた。
部屋に朝日が差し込む。部屋中が神々しいエネルギーに満ち溢れる。
なんて美しいのだろう。この世の景色ではない。私が今まで見たことのない美しい光景だった。
この美しさを独り占めするなんて勿体ない。
「ヤクさん、ちょっと起きてよ!」と隣のベットで眠っているその人の顔を見た瞬間、
全てを理解した。

遠い昔に、この隣で眠る人の魂に出逢ったことがあること。
何度も何度も出逢っていた、その当時の、相手に対して抱いていた
感情がいっきに私の中に流れ込んできた。
友人として、家族として時には人生の伴侶としてこの魂に対して私は様々な感情を抱いていた。
最初にヤクさんと会ったバスの中でどこかで会ったことあるけど思い出せなかった私。
なんで気づかなかったんだろう、もう何度も前世で会っていることに。

成田で、バングラディッシュで足止めを喰らったのも、
3日でカルカッタを脱出してしまったのも、
列車を直前になって変更したことも、
その列車で乗り過ごしたことも、
結局すべては山の中で「前世のお友達」と出会うためだったんだ。。
そしてヤクさんはどうやら最初から「前世でのお友達」であったこともわかっていたらしい、、、

そうだったんだ、、、、、、神々しい朝日を浴びながら身動きできない私の横で、
前世からのお友達は幸せそうにまだ眠りについている。

「おはよう、tigerさん」隣人がようやく目を覚ます。
何から話していいかわからない私は、
「ねぇ、日本人に生まれてきたことはある?」と聞いてみた。
「多分、生まれたことはあるとは思う。ブカブカのパンツを穿いて、髪の毛をきっちり結わいて、
、、、、サムライっていうのかな?そんな格好をしていたのを覚えているよ」
その時に出逢っていたのかな?
でも私自身はなんとなく日本に生まれてきたのは初めてのような気がする。
「1度、ヨーロッパに遊びにおいでよ。多分、tigerさんはヨーロッパに縁深い人だよ」
ヨーロッパ?私が?なんだか日本より縁遠い気がしてならない。
「いつか、招待するよ。ヨーロッパに」

出発の時間が近づいてきた。チャイを飲みながら車を待っている間も話を続ける。
お願い、まだ来ないで、車よ!!もう少し時間を頂戴!!
いくらインド時間の中にいてもいつかはその時が来てしまうものである。
「本当に、ヨーロッパにおいでよ。こんなこと、あんまり人に言わないんだけど。いつかおいでよ。」

「see you again(また会おうね)」なんだか白々しいような気がして言えなかった私。
もう会うことはないだろうけど、それが人生というもの、旅というもの。

「see you again, in this life」今生でまた会いましょう。
前世の友のこの言葉を最後に車は走り出した。

<終わり>

山での出来事~ダージリン・シッキム 2~

「チケット売り場はあっち。一緒に行ってあげるよ。」
旅先で知り合う旅人同士は国籍を超えて助け合あうこともしばしば。
「ついでに隣同士の席にしてもらおうよ、話しながらダージリンまでいけるしさ。」
う~ん、英語がいまいちな私。久々に使うさび付いた私の英語で大丈夫だろうか?
でも、この人、大変オープン・ハートな波動を持っている人。
私の英語でも許してもらえそうな感じだ。
「日本人なの?先月まで日本で禅の修行をしていたんだ。ほら、この帽子はシンジュクのタカシマヤで買ったやつ」
ヨーロッパ出身のこのヤクさん。ここ数年インドをベースとしてずーっと旅を続けている。
インドでヨガを習い、タイのお寺で修行し、そして日本へ。
ああ、若かりしころ、私もそんな旅をしていたな。
どうやら大変スピリチュアルな人のようである。真っ直ぐ人の眼を見て話す。
この人の眼、どこかで見たことのあるような気がする。
でも絶対に初対面のはず。誰か友達に似ているのかな?思い出せなくてちょっとイライラする私。

数時間してやっとダージリンに到着する。長い一日だった、、、、、、
既に日も暮れていることだし、今日は適当な部屋をシェアして明日からそれぞれの宿を見つけることにしよう、と話がまとまる。
それにしてもダージリン!!素敵な街だ。
山肌に張り付くように家々が建ち、坂道の多いこの街。
朝になればカンチェンジュンガ(ネパール・インド国境にある山)も見渡せるよ、と宿の人は言う。
そして、なによりも楽しみにしていたチベット料理も満喫できる。
ああ、今私は山の中にいる!!幸せな気分で眠りにつく。

翌朝早く、丘の上にビューポイントをあると聞いて登ってみる。
カンチェンジュンガと初対面。美しいクリスタルとアクアマリンを産出するこの山。
クリスタル好きの私にとって「聖なる山」である。
さぁ、今日はもう少し安い宿を探して落ち着かないと、、、、と思いながら
丘を下っていると、古ぼけた大きな建物が見えてきた。どうやら宿らしい。
ちょっと部屋を見てみることにする。
お客がまったくと言っていいほどいないこの宿。
ドミトリーでたったの40ルピー(110円)暖炉つき。
宿代の高いダージリンとしては破格な値段。
ドミトリーと言ってもお客はちっともいないのでこの広いドミトリーを占領できる。それも暖炉つき。
ヤクさんと「この宿に移ろう!!」と即決。
けどヤクさん、私と同室でいいの?プライベートな部屋が欲しくない?大丈夫?と聞いてみると。
「普段は人と部屋をシェアすることはないけど、まぁ、大丈夫。ひとりになりたくなったらそう言うから」
人の気持ちを察しあうことなく自分の言いたいことはハッキリと言う。
この「察しあい」をしなくていいというのが西洋人と付き合っていて楽なところ。
「でも自分は毎日瞑想をする。その邪魔さえしなければ問題ないよ」そう言ってもらえるとこっちは本当に楽。

早速新たな宿に移り、街に出て食料を買い込みダージリンティを入手して昨晩に続き
美味しいチベット料理を食べる。
日も暮れて寒くなると手に入れた蒔きを暖炉にくべる。
薪のパチパチ跳ね音だけのする山の中の宿。穏やかな静寂。
こんな時を過ごしたくて私はインドにまた戻ってくたのだな、、、、
横ではヤクさんが蓮華座を組んで瞑想している。
違う次元に入り込んでいる同室者なので今、現実の世界にいるのは私ひとり。
「ちょっとここで横になってごらん」と現実の世界に戻ってきたヤクさんが私の頭に両手を置く。
なんだかヒーリングを受けているようだな、、、、
そして昔見た「白い手」の夢を思い出す。
真っ暗な空間の中でひとりたたずむ私の頭上に下りてきた。大きな真っ白に輝く神々しい手。
どうしてもその手に摑まりたくてもがくけど、その手に触れることができない。
暗黒の世界から引っ張り出してくれそうなその手。でも結局その手には触れることもできなかった。
、、、、なんだか現実の世界であの白い手が戻ってきてくれたんだな、この山の中で。

しばらくすると数年前に死んだ父のことを思い出す。
現実社会にうまく適応できなくてお酒に逃げてしまった父。
決して「良き父」ではなかった。
それでも彼が死んだとき、私にとってはこの世で唯一の父親であり肉親だったので悲しかった。
少しばかりの涙も出た。でもどこかで死んでくれてホッとしている自分もいた。
彼の死後、ほとんど思い出すことは無かったのに今、私の心の中に父がいる。
そして、やっとわかった。
彼は現実社会で生き抜くことが下手な魂の持ち主であったこと。
生活の糧を得る父として、夫としての役割に耐えられなくなり階段を踏み外すごとくお酒に溺れていったこと。
私がフラフラと旅をしてる時期、賛成もしなけば反対もしなかった。
ただ一言「俺が今の時代に生まれていたなら、きっと同じようなことしてただろうな」
要するに私と父はとても似たもの同士だった。現実社会不適合なところも含めて。
父がとても愛おしく思えてきた。
そんな感情を持ったのは生まれて初めてのことだった。
そして生前もっと父を助けることが、本当はできたのではないか?と思った。
きっとできたはず。でも私は手を差し伸べなかった。
魂が抜け落ちていくその過程を冷ややかな気持ちでただ傍観していただけだった。

歳を重ねたせいか「自分のために泣く」といったことができなくなっていた私だったけど
この時はさすがに涙を止めることができなかった。
知らない人の前で泣くなんてちょっとはずかしかったし
大体、人前で泣くなんて「若さの特権」だと思っていた。
喉と胸が締め付けられるような痛みとともに涙が溢れ出した。
半べそをかきながら、ヤクさんにさっきまで自分の中に起こったことをぼそぼそと話す。
ただ慈悲深いまなざしで、私の下手な英語をうん、うんと言いながら聞いてくれた。
こうやって人の話をただ聞いてくれる人って、とってもありがたいな、と思った。

<続く>