お店の脇にある水場。
小路に水を撒いたり、食器や手を洗ったり。
巡礼者や旅人が使っても問題ありません。
おいしそうに水を飲んでいます。
誰も咎める人はいません。
先日書いた「不法入国に成功した人」に遭遇した後
ずっと自分の初めてのインド旅行を思い出していた。
初めての一人旅がインド
まったく英語が話せない
情報もインターネットのなかった時代、たよるは某旅行ガイドのみ
まったく無知で、故に怖いもの知らずの勢いだけはあった。
持ち合わせていたのは、ただ「インドに行きたい」という気持ちだけ。
一番やってはいけない「真夜中のデリー空港到着」もした。
お約束通り(?)空港でひと悶着あったが、
金品・命を失うことなし、旅行代理店に連れていかれて高いツアーを組まされる訳でもなく
デリーのホテルで朝を迎えることができた。
翌朝、周りの旅行者に「エライ、よく無事にここまで辿りつけた!」と握手をされた。
何故、そんなに褒められて握手をされるのかがわからない。
無知だったからだ。
日本の安全な世界しか知らなかった私はなにが「あぶない」のかがわからなかった。
道中、随分色々な人に助けられた。
様々な人が手を差し伸べてくれた。
日本人旅行者だけでなく、他国の旅行者、もちろんインドの人々にも。
赤痢で倒れ、入院し動けなくなった私をイギリス人の姉妹がなにかと世話をしてくれた。
限られた時間の旅で、自分達の旅行計画を変更してまで。
心苦しくなった。
与えられっぱなしで、自分はその人達になにも与えることができなかったから。
Give and take ではなくて、ひたすら take take take だった。
勿論、なにかを与えたくとも私にはなにも与えるものなんてなかった。
周りは旅慣れた人ばかりだったし、私の旅情報なんてとっくにみんな知っている。
私が流暢な英語でも話せるなら、言葉で困っている人を助けられるかもしれないが、
見事なほど英語を話せない。
随分と落ち込んだ。「これも人徳ってヤツ?」と開き直れるほど根性も座ってなかった。
落ち込むたびに私の手元にやってきたクリスタルに話かけていた。
そして、ある日、、、というよりある瞬間に閃いた。
「私は手を差し伸べてくれた相手に対して、なにも与えることができなかった。
でも、もしこの先、誰かの助けを必要としている人が目の前に現れたら、
進んで手を差し伸べよう、それで「チャラ」にできるのでなないか?」と。
自己流のgive and take。
今でも道中、まだ旅のコツをつかめなくてオドオドしている人や、
パニックに陥っている旅人に遭うと、
どれだけ心細いのか、どれだけ緊張しているのかが手に取るようにわかる。
怖いもの知らずで、勢いで飛び出してきた昔の自分がそこにいる。
とても素通りすることはできない。
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今読んでいる本にこんな一文がある
「恐れは自分が恐れているものを引き寄せる。泥棒を恐れれば、泥棒はやってくるだろう。
火事を恐れれば、火事の被害者になるだろう。(中略)
悪魔を恐れるなら、悪魔はあなたの中に姿を現すだろう。(中略)
あなたが悪魔から逃げている間中、それはあなたの影のようにあなたについて回るだろう」
Luc Bourgault著「american Indian secrets of crystal healing」 page47 “aquamarine”
無知で怖いもの知らずだった私。
それ故に良き出会いに恵まれ、旅をすることができたのかもしれない。もしかすると。
今現在はどうか?
道中、様々なトラブルを見聞きしてきた。
親しい人間がトラブルに遭遇し、その痛ましい現状を目の当たりにもした。
旅慣れた分「恐れ」が私の中に蓄積された。
正直、昔より構えて旅をすることが増えたような気がする。
それをどのように打ち破っていくかがこれからの課題のような気がする。
翌日から熱が出た。
風邪とは違い、頭痛もなく咳きも出ず、ひたすら熱が出た。
前日、帰りの車でお世話になったババの宿に遊びに行って美味しいカレーをご馳走になった。
ババ曰く、昨日が祭りのメインの日だったんだ。これが終わるとサンガンに集結したサドゥ達は
一斉にここ、バラナシにやってくるんだ。
昔は交通も整備されていなかったからみんな船にのってバラナシまでやってきたんだよ。
サドゥを乗せた船でガンジス河がいっぱいになるんだ。雄大な風景だったんだよ、、、、
なんとなく、その風景が想像できるような気がする、、、、、
単に外国のお祭りを見てきました、では済まされない経験だった。
大きなエネルギーの渦の中に飛び込んでいって、
今まで自分がこだわっていた価値観や限界が砕け散っていった、、、、
自分が空っぽになったような気がした。
空っぽになった頭と心。
なんでも吸収できそうな気がした。
翌朝から、とにかく見るものすべてが輝いて見える。
街角から聞こえる音楽が深く心に響く。
本を読んでいても文章1つ1つがじっくり心に染み込む。
見る・読む・触る・感じる。すべてのことにいたく感動してそのたびに涙が出てくるほどだった。
人生のリセット、なんだろうな、と思った。
それまでの数年間、日本で一生懸命働いていた。
なんとか人並みに働いて安定した生活をしようとした。
旅はもう卒業、と思っていた。
決して楽しい生活ではなかったけれど、誰だってストレスを抱えながら
コツコツと人生を歩んでいる。満員電車だって我慢している。
でも2001年を前にして私なりにがんばってきたものがすべて目の前からなくなってしまった。
なんの前触れもなく人生の進路変更に遭遇したような気がした。
「あなたの道はこれではありません」と運命に判決を出された挙句、取り上げられたような気がした。
運命のバカヤロー!と叫んでみたりした。
進路変更させたなら、進むべき新しい進路の道しるべでも教えてくれてもいいじゃないか、と。
でも、今になってみるとよくわかる。
クンブメーラを前後して私はヒマラヤクリスタルに出会っていた。
それをめぐる人脈にも出逢っていた。
あらから6年経った今、細々ながらクリスタルのお店なんて開いちゃっている。
神様はーーーー存在すればの話だけどーーーーー
私の足元にクリスタルというギフトをちゃんと置いてくれたんだ。
何かを手放せば、新しい何かがやってくる、、、、人生ってそんなものかもしれない。
祭りの後
「これで今回のインドはおしまい」という気がした。
この祭りのためにインドに来たのだから、祭りの後にいる必要はなし、と。
バラナシを離れ、ネパールに戻る。
しばらく祭りの疲れを癒してから帰国。
そう、たくさんのヒマラヤクリスタルとともに。
the end
2000年の冬、私はネパールにいた。
20世紀最後の年、ミレニアムがやって来る!と浮き足立っている中で
とってもさえない1年を過ごしていた私。
何ヶ月も続く体調不良、「人生の人事異動」の辞令が降りたごとく環境の変化。
その変化にすっかり付いていけなくなった私がそこにいた。
「秋には今の仕事、辞めようと思う」とポツリと言った私に友達は
「人生リセットだね。久々に旅に出ない?インド・ネパール」と道祖神のごとく私に囁いた。
悪魔の囁き?それとも道祖神?と思いながらも
2000年の冬、もう戻るまいと誓ったはずの旅人に逆戻りし、
美しいヒマラヤを眺めチャイを飲みながら
1週間の予定が2週間、気が付くとクリスマス・ハッピーニューイヤーと
次に行くはずのインドのことも「インドは1000年経っても逃げないし、、、、」
毎日が先延ばしの日々。
そんなある日、ホテルのロビーでテレビを見ていると
なんだかものすごい数のインド人が沐浴している映像が流れていた。
これ、なに?と一緒にテレビを見ていたホテルのインド人従業員に聞くと
「クンブメーラだよ、祭りが始まったんだ。ネパールの後にバラナシに行くんだよね?
祭りのあるアラハバードはバラナシから近いよ、行ってみるといい」
ふ~ん、お祭りか。行ってみたいな、、、、、
しかし私の「行ってみたいな」で、行ってみたためしがない。
タジ・マハールだってエローラの遺跡だってゴアだって「行ってみたい」けどまだ行ったことがない。
「タジ・マハールはテレビなんかでいっぱい見たし、、、」なんて自分自身に言い訳して。
「クンブメーラ、行ってみたいな」と思いつつ、恐らくタジ・マハールと同じく行かないだろうな、私。
年が明け、やっと重い腰を上げてインド・バラナシへと向かう。
母なるガンジス河と初めてのご対面。
「しばらく何処にも行かなくてもいいかも、、、」
そこそこ快適なゲストハウスとすっかりはまった美味しい南インド料理レストラン。
「快適な宿」と「美味しい食べ物」が存在する場所を離れるのは困難なこと。
そんなある日、とあるレストランで知り合った日本人旅行者たちに
「みんなでクンブメーラに行くんだけど、一緒に行かないか?」とのお誘いが。
クンブメーラ?そうそう、ネパールでテレビに映し出されたあのお祭りだ。
すっかり忘れていた!!誘ってもらったのも何かの縁。ちょっと行ってみるか、、、
と軽いノリで一緒に連れて行ってもらうことにした。
夜中にバスでバラナシを出発して約3時間。
訳のわからぬあぜ道で降ろされ、ここから会場まで歩くという。
既に道にはクンブメーラに向かう人で溢れている。道順なんて聞く必要なし。
1時間ほど歩き、会場である河川敷に到着。
河川敷と言っても日本のそれとは規模が違う。
遠く地平線でも見えてしまうのではないかと思えるその河川敷にも
人・人・人。到着したときはまだ夜明け前でそこらじゅうに人が寝ている。
さすがのインドも夜明け前は寒い。
ウシの糞(燃料)売りから糞を買い、焚き火を起こし夜明けを待つ。
夜明け前、もそもそと人々が起きだし火を起こし朝ごはんの準備が始まる。
そう、遠くから巡礼に訪れている、宿を取る余裕のない人々は家財道具と共にこの川原にやってきて
野宿をしているのである。チャパティを焼き始め、水(恐らく河の水)を汲んできてチャイを沸かす人々。
話掛けても英語は通じない。巡礼者はともかくポリスも英語が通じない。
本当にローカルなお祭りのようだ。
夜が明ける。
私もサンガン(ガンジス河とヤムナ河の合流地点)に向かう。
どこまで歩いても人波は途切れることはない。
正直言うと、ちょっと怖い。
これだけの人の中で自分が彷徨っていると、
このままどこまでも歩き続けて消えてしまうのではないか?という感覚に襲われる。
そしてこれだけの群集の目的はただ一つの沐浴。
それに向けられているエネルギーの強さがちょっと怖い。
サンガンまでたどり着く間に私の心の中で、
大きなガラスの塊が粉々に砕けてそれが四方八方に無限に飛び散るビジョンが付きまとう。
どのくらい歩いただろうか?やっとサンガンにたどり着く。
が、すでにイモ洗い状態。
気をつけないといけないのが、毎回このお祭りで何十人、時には3桁の人が圧死してしまうのである。
ひとりが蹴躓いて雪崩式に、、、、というパターン。
まだインドで死ぬわけにはいかないので水辺の近くで持参したクリスタルを沐浴させ、
河の水を容器に詰め頭にチョロッと水を掛けて沐浴終了。
とても物思いにふけって精神統一している余裕はない。
元々列を作って順番を待つ、というのが苦手な国民性のこの国。
河に入っていってもどんどん後ろから押される。危険きわまりないのである。
帰りの時間まではまだ余裕がある。
ひたすら広大な中州の中を彷徨い歩く。
どこを見回しても外国人の姿は見えない。
誰も私に話しかけてくる人はいない——インドではとても珍しいこと———–
恐らく、英語を話せる人がいないということなのだろう。
途中、サドゥ(ヒンドゥの行者)のパレードに遭遇する。
オレンジの袈裟を身にまとったサドゥもいるが、全身灰を塗りつけたふんどし姿のサドゥ、
そして一切布を身にまとっていない全裸のサドゥも。
陰部もオープンにしてしまえば”陰”部ではない、、、ってことだろうか。
最初はちょっと目のやり場に困ったが、だんだんとそれがとっても自然な姿に思えてしまうから不思議だ。
あまり遅くなると帰りが大変なので、ということで午後早く、会場を後にする。
最後に大きな鉄橋の上にのぼり会場を見渡してみることにする。
どこまでも続く河川敷。その河川敷はすべて人で埋め尽くされている。
一生分のインド人に出会った、、、と思った。
「狂ってるよな、、、、」傍らにいた友人が言う。
決してきれいな水とはいえないこの河に、沐浴をするためにこれけの人が集まってくる。
群集を整備しようとしているポリスは「ここを通るんじゃない!」と怒鳴りながら
棍棒でガンガンと人を殴っている。
そこらじゅうで人が野宿をしているし、橋のたもとに行くと排出物の山。
人ごみの中で押されてつまずいて、脱げてしまったサンダルが積み重なって山になっている。
そして裸体のサドゥ。。。。。こんな環境に身を置くために遠くからやってくるのか?
沐浴するために?
確かに狂っているかもしれない。
でもはるばる極東の地から大枚はたいて飛行機に乗ってやってくる異教徒の私達のほうがよっぽど狂ってるかもしれない。
寒さと疲れ、熱狂的な祭りのパワーに負けて、疲労がピークに達する。
バススタンドでバラナシ行きのバスを待っている間、
早く自分のベットに潜り込んで静かな環境の中で眠りたい、、、と思う。
が、バスはやってこない。
「ここ・バラナシ・バス・待つ・O.K?」と周りのインド人に聞いても
「そうだ、ここだ」という割りには2時間経ってもバスは来ない。
インド人の「YES」はたまに信用できないことがある。
なんだか「バスは来るであろう、あなたたちが望むのなら」という感じのYESだ。
すっかり日が暮れ、夜がやってくる。
外にバスがきているぞ、と近くのインド人が教えてくれる。
道に出てみると確かにバラナシ行きのバスだが、既に超満員。定数オーバーの人員が乗り込んでいる。
「ひょっとして、今晩はここで野宿か?」と腹を括ったとき、
ひとりのババに声を掛けられる。
自分もこれからバラナシに帰りたいのだが、みんなで車をチャーターしないか?とのこと。
私達7人とバラナシに帰りそびれたヨーロッパ人2人・ババとその奥さんで車をチャーターする。
バススタンドで待つこと4時間以上。やっとバラナシに戻れる!!
出発!!と同時に車内でババがウィルカム・ガンジャをまわし始める。
ガンガンまわし始める。陽気なババだ。
真夜中のバラナシに無事生還。
ごちゃごちゃ騒がしい街だと思っていたが、
祭りから戻った身には天国のように穏やかな場所に思える。
やっと安全な場所に戻ってこれた、、、、、
部屋に着くなり、倒れこむように眠りに付く。
「祭りのあと」に続く
友人が今年初めからインドに行っていて、ようやく帰国した。
写真を見せてもらっていると、見覚えのある一枚の風景に目が釘付け。
クンブメーラだ。
世界中の宗教の祭りの中で最大と言われるクンブメーラ。
友人はこのクンブメーラに行きたくて日程を調整したと言う。
実は私も2001年にこのクンブメーラに行っていた。
ご存知のない方も多いかもしれませんのでクンブメーラの説明を、、、、
ヒンドゥ教のお祭りであり、なんでも宗教的な集いとしては世界最大規模を誇るらしい。
3年ごとにアラハバード・ハリドワール・ウジャイン・ナーシクの4箇所で行われる祭りで
1つの場所では12年に一度の祭り。6週間行われる。
神様がそのむかし昔、不老長寿の蜜の入った壷を奪い合い、うっかり蜜を落としてしまった。
その落ちてしまった場所がアラハバードをはじめとする4箇所だそうです。
2001年のアラハバードはちょうど12年に一度のmaha kumbh mela(グレートクンブメーラ)。
友人が今回行ったのはその中間(6年に一度)であるardh mela(ハーフメーラ)。
ちなみに毎年magh melaとしても行われる。
アラハバードとは聖地バラナシから西へ135キロ、バスで3時間ほどの街。
ガンジス河とヤムナ河の合流地点(sangam)でありこの合流地は魂を浄化する偉大な力があるという。
この祭りの日程は厳密なホロスコープ(インドではジューディッシュという)によって決められるそうだ。
木星がみずがめ座に入り、太陽がおひつじ座に入るとき、、、、らしい。
私が当時、インド人に説明してもらったのは
「太陽と地球と木星が一直線に並ぶのが2001年の、144年に一度のクンブメーラだ」とのことでしたが、
これが「木星がみずがめ座に入り、太陽がおひつじ座に入る」のことなのか、
単なるホラなのかは不明。
とにもかくにも。2つの河が合流し、魂の浄化にとっておきの場所で
12年に一度、もっとも宇宙のエナジーが強まるときにこのお祭りが開催されるわけです。
インド中のサドゥがこの聖なる祭りにやってくるし、インド中から熱心な巡礼者もやってきる。
バスに乗り列車に乗りそして徒歩で「この時」のために、そしてたったひとつの目的—-
沐浴するために——–インド中、いや、世界中から人が集まるのである。
どのくらいの人々がやってくるかというと、公式発表では2001年の1月9日から2月22日の間に
7000万人の人々がこのsangamに集い、沐浴したという。
12年に一度の祭り・クンブメーラ。
私の行った2001年のクンブメーラは21世紀初めてのグレートクンブメーラであり、
144年に一度のもっともパワフルで星回りのよいprayag kumb melaでもあった。
次のprayag kumb mela は2145年。
間違いなく生きてはいない。ご縁があれば来世で再びprayag kumb melaに出逢えるかもしれない。
さて、今年のクンブメーラに行ってきた友人の感想は
「自分がとってもちっぽけな存在だということがよーくわかった」とのこと。
そう、なんとなく言っていること、わかるような気がする。
とてもちっぽけだけど喜びや悲しみを抱えて日々コツコツと前進している愛しい存在でもある。
宇宙のエネルギーがもっとも強い時に、その地を訪れ
たった一つの目的である沐浴をする、、、、、日本は先進国と言われているけど、
もしかして、インドは日本より1周多く廻って日本の後ろに着けているくらい「超先進国」かも。
TAROさんの「いつかの旅」
美しいクンブメーラの写真が掲載されています。
TAROさんという方は先に書いた私の友人のことではありませんが、
この方の作品が一番私にとってのクンブメーラに近い感覚なのでご紹介させていただきます。
久々に6年前のクンブメーラを思い出した。
あれから6年も経っているのか。
少しだけ私のクンブメーラの思い出を書いてみようと思います。
「2001年のクンブメーラ」に続く
チベットと言えば「バター茶」
ミルクティにバターが入っていて、塩味もあるよ、のバター茶。
チャイをこよなく愛する私ですがチャイ+バターはちょっと、、、な私。
なにを思ったか今日、バター茶を作ってみた。
突然思い出すバター茶の思い出、、、、、、、
その昔、インドのチベット圏の町で10日ほど入院してまして。
そこの病院では入院患者さんの食事は家族が食事を持ってきたり、共同炊事場で家族が作ったり。
お昼や夕方になると炊事場は大混雑で、カレーの香りがプーンと漂ってきます。
日中は暖かいお庭で患者さんはじめ、
家族や病院関係者やその他なんだかわからない地元民たちとひなたごっこ。
外国人の私が入院しているのが珍しいのか「なんで入院してるんだ?」「病名は?」などなど質問の嵐。
しまいには看護婦さんがひとりのチベット人のおじさんを私のところまで連れきて、
「この人、あんたと同じ下痢よ!!」と紹介までしてくれた。
ああ、地元の人間でも赤痢に罹るのね、ちょっと安心。
なんだか入院しているというより、インドの長屋に紛れ込んで生活しているような感じでした。
日本なら法定伝染病の赤痢。隔離されちゃう病気。
「ああ、雨季には多いんだよ、赤痢。子供は死んでしまうことが多いけどね、君は大人だから大丈夫。ノープロブレム。」と言ってくれたドクターは180センチを超えるであろうでっかいイギリス人。
子供は死んじゃうのですか?あなたに比べるとワタシ、コドモノタイケイナンデスケド。。。。。
ドクターが死なないって言っているんだからきっと死なない。
随分インド色に染まっているドクターだけど、死なないってさ!!
そんな病院の同部屋にチベット人のおじいちゃんが入院してました。
そのおじいちゃんのところには、
1日2回ほど若いチベット僧侶が食事をんできていて、ポットにはバター茶。
家族もいない、食事を世話してくれる人もいない入院中の異邦人(私のこと)を哀れに思ったのか、
毎回お世話係のチベット僧に「彼女にもお茶をあげなさい」と
言って、そのバター茶をくれるのです。
が、白目はまっ黄色・微熱・暴力的な吐き気と戦っている私にとってバター茶は天敵。
ヤクの乳で作るバターは独特の匂い。匂いが嗅ぐだけで降参。
その頃はまだ私もノーが言えない日本人でしたので、
涙が出るほど気持ちはありがたかったのですが、
涙が出るほど辛かった、、、、、
最後にはそのお坊さんが来る時間帯になると寝たふりしてしまう私。
失礼な私。だったらノーと言えばいいのに、人の好意にノーが言えない私。
ちなみに同部屋には陣痛の始まったインド人女性もいまして
とにかく辛そうにうなっている。
私も結構辛い病状だったけど、彼女も難産なのかとても辛そう。
夜中に泣き叫んでいる彼女の手を握り締めて
「大丈夫だからね、がんばってね!!」と日本語で語りかけていた私。
晴れて10日ぶりに退院した私。
一気に10キロほど痩せてしまい、しばらく移動は不可能。
帰国するにもデリーまで13時間もバスに揺られるほど体力のない私。
とにかく安静第一ということでしばらくその街に留まっていた。
留まっていてもなにもすることがなくて退屈。
散歩のついでに診察に行って病室を覗いたら、おじいさんは早速バター茶を振舞ってくれた。
陣痛で苦しんでいた女性の傍らにはかわいらしい男の子の赤ちゃんが!!
奥さんの陣痛中はオロオロしていた旦那さんはもうニコニコ。
そんな遠い昔を思い出しながらバター茶で一服。