老犬タロウのはなし2009/11/01 00:57:05

以前ブログに記した要介護犬タロウ

心配していた夏もなんとか無事に過ごして穏やかな老後を送ってます。

少しづつ、衰えてきているけど、まぁなんとか安定している、、、と思っていたら

昨晩から具合が悪くなって、夜通しの看病。

口の利けない動物はこんなとき「どこが苦しいのか?」と聞くことができない。

ただただ、抱っこして大好きなカロリーメイトを飲ませてあげるしかない。

「朝になったら、病院に行こうね、頑張ろうね。」と声掛けしながら。
三度の食事の世話、投薬、排出物の処理、夜中の徘徊、、、、、、

この生活が半年以上続き、正直私も疲れてきていた。

「この生活、いつまで続くのだろうか?」と。
両手にその小さな老犬の重みを感じながら、ふと「命って暖かいな」と思ったら、

なんだかホロホロと泣けてきた。

半年ほど前に肉親を亡くしそれと前後してタロウの介護が始まって

「犬の介護は大変!今年は介護の年だ!」と思っていたのだけど

「タロウを世話する」というお仕事がなかったら、私どうなっていたのだろう?

肉親を看取り、その後がっくりと「ふぬけ」になってしまっていたかもしれない、、、、

人間の介護だって、犬の介護だって、確かに大変で疲れも出てくるけれど「ふぬけ」にならなかったのは

この老犬がいてくれたからなんだろうな、、、、と今更ながら理解した。
朝方、少し様態が落ち着き、ふたり(犬と私)で少しウトウトと眠る。

午前中に動物病院に行って、点滴をしてもらい帰宅。

寝顔も穏やかなので一安心。

夕方になってむっくりと起き出しドッグフードを勢いよく食べ、その後勢いよく放尿。

「いったい何が起こったのでしょうか?」と言いたげなほど

しっかりとした表情に戻った老犬タロウ。

「介護してあげている」なんて思っていた自分の器の狭さにただただ反省。

暖かな命が、傍らに存在することの有難さをかみ締める10月最後の日。

祭のあと

 金沢文庫芸術祭 1DAYイベントが終了しました。

いつもブースにお越しくださる方々、

初めてお会いする方々、ありがとうございました。
   

黙々と自分の世界へ降りて、創造の泉の岸辺で指先を動かしていたこの1週間。

祭の始まりとともに外の世界への扉が開き、私に声を掛けてくださる方々が

いるなんて、私、ちょっとした幸せ者なのではないか?と

しみじみ感じた1日でした。
  
久々に見る青空と暖かな日差し。そんな日に終日屋外で過ごす1日は

あっという間に過ぎていきました。
  
広場のキャンドルが点灯する時刻、パレードが始まります。

太鼓のリズムに合わせて人々が色鮮やかな衣装に身を包み、踊り、広場に集まります。
その衣装は決して「社会」に身を置くための衣装ではなく、

自由で、ある意味奇抜で、多くの人たちにとって

「ここだけで着る事のできる」そんな衣装。

そんな衣装を身につけられる場所を毎年提供してくれる

金沢文庫芸術祭、万歳。そして実行委員会の方々に感謝。

私自身はそんな衣装を身につなかったけれど、

自分自身を花で飾ってみました。

 
小鼻についているのは、鼻クソではなく、ノーズピアス。

自分を花で飾るなんてこと、したことなかったな。

これも 「ここだけで」できることかもしれない。
シルバーウィーク。

残りの休日は蓄積された疲労回復に努め、祭の余韻を楽しみたいと思っています。

頂いたオーダーはエネルギー回復の後、ひとつづつ制作を開始する予定です。

  
皆さま、良き連休をお過ごしください。

オーダー作品より

2015-09-03

 

鮮やかなグリーンが美しいターコイズ。

コードの色と石だけをチョイスして、あとは完全お任せのオーダーです。

グリーンが大好きで、このターコイズに一目ぼれしてしまったそう。

オーダー主は3ヶ月ほど日本滞在予定のスペインの方。

情熱の国、そして太陽の光が日本と異なる土地で

胸元を飾る装飾ってどんな感じ?

イメージを膨らませ、少し大胆な装飾にする予定。

 

肌の色、瞳の色、髪の色。

この組み合わせがたくさんあって、それが個となる人種の人たちは

自分に似合う色を本当に良く知っているな、といつも思う。

 

今年のトゥルシー

実は今年、久々にトゥルシーの苗を買って、育てています。

小さな苗を買ったのだけれど日当たりのよいテラスであっという間に成長した。

  
鉢植えのが苗から育てたトゥルシー。

もうひとつ。
2年前、インドのクンブメーラで一緒だったMちゃんが、サドゥーからトゥルシーの種を貰って、

そのトゥルシーから収穫した種を送ってくれて、庭に直播きしたら、びっくりするほど繁殖

トゥルシーも幾つか種類があるようで、香りも葉っぱの形も違う。

毎朝、お水をあげるついでに、葉っぱを一枚食べるのが習慣。

1日1枚の葉っぱを食べると長生きする、、、ってインドでは言われている。

家にトゥルシーを植えると邪気を払ってくれるそうで。
トゥルシーとともに、マリーゴールドの苗も植える。
 
私の大好きな花、マリーゴールド。

インドのサドゥーたちもこの花で身を飾る。

 
庭にトゥルシーとマリーゴールド。

密かに我が家、インド化進行中。 

うっとりしながら、クリスタルを磨く

2010/09/09 01:11:13

先日眼を覚ますと、風の匂いが違って、太陽の光も違って、

そうだ、クリスタルを磨こうと思い立つ。

ガンガー・ジャル(ガンジス河の聖水)はまだまだたくさんあるし

大きなクリスタルたちを活性化させてあげよう。

プライベートのクリスタルではなく、商品のクリスタルたちに対しては

なかなかひとつひとつに意識を向ける時間が少ない。

そして、いつかは此処からから旅立つのだから、

プライベートのクリスタルと違って、仮の持ち主(私)と一体化することはできない。

とても微妙で、でもはっきりした一線を引いて付き合うことで距離を保っている。
ひとつひとつのクリスタルたちを、ガンガー・ジャルで磨く。

見る見るうちに、輝きが増してくる。

「どうしてなんだろう?」いつも疑問に思うのだけれど、

とある友達は言った「クリスタルは、人間より”素直 ”だから水の違いにも素直に反応する」
ああ、こんなにも美しい光を宿していたのか。ひとつひとつのクリスタルが

輝きを増すごとに、うっとりと見惚れてしまう。

ちっとも仕事ははかどらない。

時間を掛けて、じっくりと磨く。

テーブルの上でしばし、乾燥。

部屋の空気が、ピシッと「キマる。」

そして、私自身の、どこか眠っていたような、ダレていたような

心の一部が覚醒する。

クリスタルを磨いていたつもりだけど

その行為は、私自身の曇っていた感覚を磨いていたのかもしれない。

クリスタルと共に時を過ごしてきたこと

初めて出会ったクリスタルについては以前、ブログにも記した。(クリスタルとの出会い)
随分と昔のことだけど、昨日のことのように覚えている。
でも、なんでそのクリスタルを飽きずに、ずっと共に時を過ごしてくることができたんだろう?
もちろん、美しい。
それは私の心を離さなかったのは事実。
そしてネパールという国でヒマラヤクリスタルと出会って
それをめぐる様々な人たちとの出会いが私をここまで運んでくれた。
そして、今こうやってお仕事にまでしている。

でもそれだけかな?

「なんで、こんなにも飽きずにクリスタルと一緒にいるのだろう?」

そばにいるのが当たり前の時間が過ぎて行き、今頃になってそんな素朴な疑問が沸いてくる。

実は、帰国してからずっとそのことを考えていた。
ある日、ふと心に沸いて来た言葉。それは

「美しくもあり、変化をしないこと」というシンプルなものだった。

厳密に言えばクリスタルだって割れてしまえば形が変化する。
ものによっては変色をするアメジストのような石だってある。
そしてあるとき今まで「見えなかった」光や形を認識することもある。

それでも大事に扱っていれば、孫の代までそれを受け継ぐことだって可能。
私が死んでしまっても、、、、そのクリスタルは「そこにある」。

変化しないもの、変わらないもの。

人間は成長、老化という形で変化を遂げる。
その内側にある思いや感情さえも、一瞬のうちに変わることがある。
そして世の中の流行や世論だって時と共に変化する。
常識だって時代とともに変化する。

その変化というものをエキサイティングで楽しむこともできる。
なんにも変化のない人生なんて、つまらないではないか?と。

そんな変化を成し遂げていく世界で、
私はなにか「絶対的に変わらないもの」を求めていたのだと思う。
これだけいろいろな場所を旅して変化を自ら求めている自分が
言うのはなんだかヘンなことなんだけど。

いつ、顔を合わせても変わらないもの。
クリスタルがそれに一番近かったのだと思う。
それは私に安心と安らぎを与えてくれる。ついでに美しい。
その光で、闇を、私の心の闇を映し出してくれるもの。
その光で、闇を、光の世界に変容させてくれるもの。
地中深くで育った「それ」が、地上に現れた。
そんな役割を持ってるのではないか?と。

そして
多分、恐らく、私自身、そして人々の内側にも
クリスタルのように「絶対に変わらないもの」が存在するのだと思う。
多分、それはクリスタルより更に不変なもの。
でも、私を含めて多くの人はそれに触れることができないでいる。
触れなくてもいいものなのかもしれない。
「存在する」ことさえ意識していれば。
飽きることなくクリスタルと共に過ごしてこれたこと。
一時的に依存しそうになって一線を引いて接していた時期もある。
このまま飽きて、他の趣味に移ってしまうのかなぁ、、、なんて
感じたりもしたのだけど、依存しそうな自分を建て直し
真正面からクリスタルと向き合ったとき、やっぱり私はこの存在とともに
過ごしていきたい、と痛感した。

おい、クリスタル。
私の内側にもうひとつのクリスタルがあるのか??
もしあるならば、それに触れてみたい。いつかは。

白い手と、シヴァの手

ある瞑想のトレーニングに参加したときのこと。

私たちは行者として床に座り瞑想をする。
そのうちのひとりが立ち上がり、シヴァ神となる。
そしてに瞑想をしている行者ひとりの肩をポンッと叩く。
肩を叩かれたら、それはシヴァに呼ばれた合図。
右手を高く挙げ、シヴァに引き上げてもらう合図を送る。
シヴァはその人に手を差し伸べ、立ち上がらせる、、、、
立ち上がった人は、今度はシヴァとなり瞑想を続けている行者の肩を叩き、引き上げる、、、、

特別興味が沸いてきたわけでもないその瞑想。
中盤くらいになって私の肩がポンッと叩かれた。シヴァからの合図。
右手を高く挙げ、引き上げてもらうのを待つ。
参加している誰が引き上げてくれたのかはわからない、暗闇の中だから。
暗闇の中で私は眼を閉じて、座り、引き上げてくれるその手だけを頼って立ち上がる。
今度は私がシヴァとなって、誰かの肩を叩き、引き上げる。

シヴァの役目を終えて、壁際で座り、瞑想を続ける。
そんな中、昔に見た夢がこの瞑想とリンクした。

広い暗闇の中で私は一人、その場に座ったていた。
なにも聞こえない、見ることのできない暗黒の世界。
突然、上空から大きな手が差し伸べらてた。
真っ白に輝く、大きなその手。
差し伸ばされたその手に必死で手を伸ばしている自分。
ここから救い出してくれる大きな、輝く手。
どうしてもその手を取らなくてはいけない。
必死で私も手を伸ばすのだけれど、その手を捕まえることができない、、、

、、、そんな夢だった。
夢から覚めたあと、ものすごい悲しみが襲ってきた。
ひとりぼっちで、暗黒の世界にいる自分をこの世界から引き上げてくれるはずのその白い手。
それを掴み損ねた自分。
もう2度とその手は現れないのではないか?
自分は一生、この暗黒の世界で生きていかなければならないのではないか?
虚しさと悲しみがこみ上げてくる。
大人になってからこんなに悲しい夢をみたことはなかった。

その夢の続きが、現実の世界で、私の元にやってきたような気がした。
あの輝く手はシヴァの手として形は変わっていたけれど。
私に深く関わる女神・ドゥルガー。サイトのトレードマークにもなっている。
シヴァの妻の化身でもあるドゥルガー。
、、、うまくリンクされているな。

シヴァに引き上げられた私の右手は今でも時折、ものすごく熱を持つ。
「あなたはシヴァの手を掴むことができました」という合図のように。
引き上げられた私は、今どんな世界にいるのだろう?

そしてもう2度とあんなに悲しい夢を見ることはないと思う。