2011/11/05 17:30:09
厳しかった夏の、夏バテ。
そして秋の台風と雨による爆発的偏頭痛。
体調が回復しないまま、ドイツ行き。
大丈夫か?自分。今までで一番不安な旅の始まり。
12時間のフライトなので、絶対に通路側の席を確保したい私は、
きっかり2時間前にチェックイン。
こんなに早く空港についたこと、なかったので、暇を持てあましどうしても足は喫煙室へ。
「ああ、12時間ニコチン抜きか、、、」プハーッと一服していたら
煙る部屋には、私と白人のおじさんふたりきり。それも仲良く隣。
眼が合ってしまったので、なんか話しかけないと場が持たないなってことで、
「これからお国に帰るんですか?」と、どーでもいい話を振ってみる。
広島に仕事と観光を兼ねて1週間。これからミュンヘンに帰るドイツ人。
あらあら、同じフライトですね。
「原爆ドームに行ってきたよ。世界的に有名だからね。」
うん、私も行ったことがある。修学旅行で。
「ああ、まったく酷いものだよ。ヒロシマ滞在中、毎日通ったよ、原爆ドーム。
日本とドイツは先の戦争で一緒に戦ったよね。
もしかしたら、僕達の身に同じことが起こったかもしれないんだ。
ほら、ドイツは○×◆がいたからね」
この○×◆が聞き取れない。多分、今思えばdictator(独裁者)と言ったのだと思う。
何度か聞き返して、おじさんはためらいがちに、「ヒットラー」と言った。
そうか、名前さえも口に出すことをためらうものなのか。
「本当に、僕達の身に起きてもおかしくないことだったんだ」
会話中、何度も何度も心の底からこのセリフを言う。
多分、白人の国には投下しなかったと思うよ。
ドイツ周辺には陸続きで米国の同盟国があるし、
どんな影響が長期間あるかわからないような、とんでもない爆弾、
ドイツに落とすわけがない。たとえあと1年、戦争が長引いても。
アジア・島国日本、、、、だから落としたんだよ。モルモット。
、、、、そんなこと、おじさんに言ってもちっとも慰めにならない。
彼は、本当に自分の身に置き換えて、あのドームを見てきたんだ。
その気持ちが痛いほど伝わってくる。
突然、ある老婦人のことを思い出す。
23,4歳のころ、仕事で知り合った一人暮らしの老婦人。
彼女は私に広島での原爆体験を、ある日突然語り始めた。
亡くなったご主人にも、子供たちにも、自分が被爆者であることを知らせていないそうだ。
私にとって、初めて経験者から聞く戦争話だった。
家族に聞いたことがなかったのか?と思う人もいるかもしれない。
両親は終戦時小学校1年生。両祖父は年齢制限のためか徴兵を免れている。
父方は、当時本家の横浜にはおらず、疎開していたため、東京大空襲を経験していない。
とにかく、食べ物がなくて辛かったこと。お米がなくてサツマイモばかり食べていたこと。
そして母がサツマイモの煮物を食卓に出すと、
「そんなもの、見たくない!」とよく怒っていた。
母方は群馬の山奥の農家だったので、戦争と言われても、よくわからなかったらしい。
ただ、疎開者に比べればまだまだ食料事情はよかったらしい。
東京大空襲のときは、夜になっても数日間、東の空が明るかったそうだ。
23,4歳ばかりの小娘にとって、老婦人が語る体験は衝撃的だった。
このとき初めて「ホワイト・アウト」というものを経験した。
頭が本当に真っ白になっちゃうのである。悲惨だな、、、、とか思う前に
突然頭が真っ白になって、なにがなんだかわからなくなっちゃうのである。
今だったら、多分、「大変でしたね、、、」とか会話の途中で言葉を
かけることができるのかもしれない。一緒になって泣けるかもしれない。
でも、当時の私は恐らく相槌さえも打っていなかったと思う。ホワイトアウト。
老婦人が淡々と感情抜きにして語るその言葉は、本当にリアルだった。
数ヵ月後、老婦人は亡くなった。
「最後に、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない」当時はそう考えていた。
このドイツ人との会話中、忘れていた老婦人のことを思い出し、
そして彼女は私に―――ーこれからの世界を生きる若者に、人生の最後に
肉親にさえも語れなかった「大事なこと」を託したんだ、と言うことに気づく。
なぜ、彼女は私を選んだんだろう。
それを思うと突然胸を締め付けられるように痛む。泣けてきそうだ。
「ノー・モア・ヒロシマ」
「ya,thats right(その通り)」
そして、ノー・モア・フクシマ、だ。
「たくさんの学生さんたちが見学していたよ。
でも、あれは日本人だけでなく世界中の人が訪れるべき場所だ」
私は泣けてきそうなほど、あの老婦人を思い出し、
ドイツ人おじさんは、自分たちの身に起こったかもしれないこととして
広島滞在を振り返る。
成田空港・喫煙室。
なんでこんなところで、知らない人と心震わせているんだ????
旅は、既に始まっている。