2013年の旅

以前使用していたブログのプロバイダーが閉鎖となり

このwordpressへ移行したのですが、以前のブログ記事を少しずつアップしていきます。

この年の旅は2月の初めからゴールデンウィークちょっと手前までの長旅。

石の仕入れも兼ねて12年前に訪れたクンブメーラにもう一度行きたい!との思いでした。

途中、肺炎で入院というアクシデントがありエキサイティングな旅となりました。

この肺炎はなかなか厄介なもので、帰国してから6ヶ月くらい後遺症に悩まされ

しばらく旅はできないな、、、と初めて旅することが怖くなりました。

帰国後から2020年の今まで。

引越しを3回、会社勤めをしてみたり、もう本当に目まぐるしい日々で7年も経ってしまった。

またいつか、自由に旅ができる世界に戻れますように。

そんな願いも込めて過去の旅を振り返ろうと思います。

1 旅のはじまり 

日記代わりのつたない文章となります。ご了承ください。

今回の旅のはじまりは、めずらしいことに一緒に旅を始める仲間がいたこと。
半年前にとある催事で知り合ったAさん。
旅好きだとわかり、なんとなく2013年のクンブメーラに行く話をしていた。
1ヶ月ほど前に連絡があって
「私も、クンブメーラに行くことになりました」
「現地で会えるといいね。いつのフライト?」
「あれれれ、同じフライトだ!」

そんなわけでAさんと共に9時間のマレーシアでのトランジットを経て、コルカタ到着。

実は今回、「私も、インドに行くことになりました」
同じ時期、同じ場所に向かうことになった人から次々と連絡をもらい、
自称・友達少ないヒトの私にとっては、奇跡に値するかのような流れ。

ちゃんと列を成して搭乗するインドの人々。
コルカタへ向かうマレーシアの空港にて。

コルカタの空港を出た瞬間、五感が私を刺激する。
また、この「生きる力」みなぎる大地に戻ってきたんだな。そしてここはベンガル。

ふっと、肩のこわばりが消えていくことを実感する。
普通は異国に到着して旅が始まるんだから、緊張して、こわばりそうなものだけど。
なぜか、肩の力が抜ける。
そして数日後には、きっと、腹の奥深くから、呼吸ができるようになるはず。

今年の初参りは、ドッキンネーショル。

このお寺は、近くで見ても美しいのだけれど
せひ、ベルル・マト行きのボートの上から見て欲しい。うっとりするような眺めだ。
ボート代4ルピーをはるかに超える価値あり、です。
境内は写真禁止なので、この写真はボートの上から 以下動画もどうぞ

(ミュートにしてね)

ドッキンネーショルからベルルマトに向かう渡し船の上より。

カーリー殿にてひとかけらの果物とマリーゴールドの花を僧侶の方からいただく。
あれ?これって、食べていいの??それとも奉納するの??
そばにいた青年が、食べるんだよ、そのあと、その手で頭を摩るんだ、と教えてくれる。
澄んだ目をした朗らかな笑顔の青年だった。
、、、、絶対、サダルとかにはいなさそうな青年。
「瞳は心の窓」昔の人はいいこと言ったものだ、本当に。

ラーマクリシュナのお部屋。

相変わらず澄んだ空気の流れる空間。それだけではない、何かが今もそこにある。
その「何か」を表す言葉はまったく浮かんでこないのだけど、
「聖別された空間」というものがあるならば、それはまさにこの場所だろう、と思う。

さて、今回、お寺に入る手前で、なぜか外国人は
パスポート提示と、ノートへの記入を求められる。
小難しいことではないのだけど、ま、宿帳に記入するような感じ。
芳名帳だと思えばいいことなんだけど、
パスポート番号とビザ番号も必要なの??と思うと、なんだかな。
参拝に、身分証明が必要って、インドのセキュリティーは年々タイトになってきています。

ベルル・マトへ行く。
この日は遅くの参拝になってしまったので、あまりゆっくりとすごすことはできなかったけど、
その代わり夕刻のアラティ(礼拝)を見ることができた。
この祈りの歌は、以前日本で参加したアラティと一緒だ。懐かしいな。
数年前の、そのアラティを思い出す。
でも、それ以上に、遠い、子供のころに聞いた子守唄のような懐かしさが心に染み渡る。

この地に、再びやってくることができたのだな、、、としみじみ。

インドの携帯電話

今回の旅、人にいろいろ会う約束があるので、インドの携帯電話を申し込む。
以前の番号は、3年間、リチャージをしていなかったので、失効。

すぐに使えると思っていたら。
写真、パスポートコピーを提出して書類記入(ここまでは前回と一緒)
しかし!24時間後でないと使えない。
それも専用ダイヤルに電話して、事前に指定されている質問に、
本人が答えなければならない。(お店の人、代行してくれなかった)
雑音の入る、巻き舌英語の質問が聞き取れなくて、焦る。
あまりの聞き取れなさに(私のリスニング力の問題だ)お店の人に
助けを求めたけど、だめ。本人が答えなくてはいけない。
なんで、こんなに難しいことになっちゃったのさ!
お店の人曰く「携帯を使って、色々悪いことする人も増えちゃったから」とのこと。
別に、携帯使わなくても、悪いことする人はするだろう。
ここまでタイトな規制が掛かるってことは、傍聴だってされているだろう。
上行く悪事をする人は、きっと伝書鳩飛ばし始めるような気がする。ポロッポー。

同じ手続きは、もう2度としたくないので、この携帯番号は絶対
失効しないようにしよう、、、、と心に誓う。

と、ここまでがインド入国後の数日間。

旅、はじまりました。いつも以上にエキサイティングな旅の予感。

きっと、予感は的中する、、、と予感する。サダルの宿にて。

2 Mの家

Mの家

某日。マヘンドラ・グプタの家(M‘s House kathamrita Bhavan)に行く。
マヘンドラ・グプタはこの家でコタムリタを執筆し
そして原稿を印刷所へ送った翌日、この家で生涯を終る  

Mことマヘンドラ・グプタについては wiki参照  )          

*訂正 訪れた家は「終の住処」の前に住んでいた家でした。外国人が来たからなのか、普段公開していない部屋も鍵を開けてみせて頂きました。ヴィヴェーカーナンダもよく訪れてこの家のベランダで瞑想をしていたそう。私もその場所に座ってそっと目を閉じてみた。

コルカタの一般住宅地なので、道に迷うだろうな、と覚悟はしていたのだけど。
インドの人は「様々な行きかた」を教えてくれるのでそれは想像を絶するほどの
道の迷い方だった。「こっちの道だよ、、、、あなたが望むなら」そんな感じ。
軽く20人を超える人に道を聞き、2時間。
最後に「全然ここじゃないよ!」ってことで、トラムに乗って移動。
(最初にこの道をまっすぐって、警官が教えてくれたのに!!)
閉館時間も迫るとき、やっとMの家に到着。


ドアを開けるとそこにはインド人男性。

「Mの家はここですか?オープンしてますか?」
「開いてますよ、どうぞ、二階へ」

2階へ行くと、女性が数人いて、その一人の方に案内をされてお部屋へ。

小さな、6畳ほどの部屋。ここでコタムリタが生まれたのか。
ショーケースの中に、色あせた赤いクルタ(インド人男性用の服)と靴が飾ってある。
それはラーマクリシュナのクルタ。

屋上に出てみると、本当にそこはインドのローカルエリアの風景が広がる。
「ヴィヴェーカーナンダもよくここに来られて、屋上で瞑想されていたのですよ」と
案内してくた女性が言う。本当にすごいところに来ちゃったな。

「ここは個人宅なんですか?それともアパートのようなもの?
今もここに子孫の方が住んでいらっしゃるのですか?」

「個人宅でしたが、今は人は住んでいません。
ほら、先ほど、男性の方がいらしたでしょ?あの方がマヘンドラ・グプタの曾孫です。」

玄関で「オープンしてますか?」と私が聞いた男性、その人が曾孫さんだった。

なんてこった!!

2階へ降りると先ほどの男性、曾孫にあたるグプタ氏。
日本から来たこと、そして2年前に日本語訳が出版されたこと、
持参した−−−−旅前に忙しくて、購入したのはいいけど、読んでいなかった
コタムリタ第2巻をお見せする。

なんだか夢のようだな。あのマヘンドラ・グプタの子孫の方が
目の前ににて、話すことができるだなんて。
夢見ているついでに、腹の底からから勇気を振り絞って
「この本にメッセージを書いていただけますか?」とお願いをする。

親愛なるシスター、アヤ。
無限の愛と敬意と共に。

Mの曾孫 ディパク・グプタ

「どんなときでも、この本をあなたの傍らにおいておきなさい」

はい、わかりました。
生涯、ことあるたびにこの本を開き、共にいます。

すっかりと日も暮れたこんな時間に、招き入れてくれて、ありがとうございました。
夢心地で家を後にする。

求め、行動することで
行くつく先にはこんなにも素晴らしいことが起こるんだな。
迷いに迷ってたどり着いた場所で、子孫の方にお会いできるなんて。

インドにて、小さな奇跡。
いや、小さくないな。
一生忘れることはない出来事だった。

明日、コルカタを離れる。

3 インド 列車ファースト

さて、日本でインドの列車を予約して、その時点でウェイティングリストの3番。
まわりの人も「大丈夫、大丈夫」というので、
当日までに枠は取れるだろう、、、、と思っていたら。

出発4時間前でまったく順位は上がらず、焦る私。
4時間をきった時点でキャンセル料25パーセント取られるシステムなので、
その前に集中してキャンセルが入ると思っていたら。

知り合いの代理店の力を借りて、やっと1時間を切ったところで、リザーブ成功。
大急ぎで駅に向かう。

今回は初のファーストクラス寝台。
4人のコンパートメント。

同じコーチになんだか白馬の王子様みたいなコスプレインド人がいて、
なんなんだろう?と思っていたら、私はその人と同じコンパートメント。
コスプレではなくて、「花婿さん」だった!!

結婚したばかりの夫婦。美男美女のカップル。
美しいシルクのクルタ。花嫁さんは、真っ赤なサリー。

初々しいしいカップルでした。
少しだけ幸せのおすそ分けを頂いた気分。

もうひとりの乗客は「さすがファーストクラス」的な初老のインド人紳士。

さて、この4人のコンパートメント。
花婿さんと初老インド人と私で会話はするが
花嫁さんは絶対に会話に加わらない。
どちらかといえば、ムスッとした顔で黙っている。

初老インド人が席をはずした隙に、
手の平のメヒンディを見せてもらえますか?とたずねると。

、、、満開の笑顔で、私に接してくれる。

そう、インドでは旦那さんや家族以外の男性と話したり、笑顔を見せてはいけないのだ。

その笑顔はとってもキュート。
いつも笑っていたほうがかわいいよ、、、、と言いたいところだけど
部外者の男性に「かわいい」なんて思われたらいけないのである。
なので笑顔を見せてはいけないのである。
たとえ相手が初老であっても。

日本の感覚で言えば夫の前で知らない男性にボディタッチして馴れ馴れしく話す、、、いや、それ以上にしてはいけないことかも。

初老男性が戻ってくると、一瞬で押し黙ってしまう。
ああ、ここはインドなんだな。
ファーストクラスに乗るくらいの人でもやっぱり保守的なんだ。

新婚さんカップル、そして初老インド人はヒンディー語圏の人なんだけど、
私がいるので、英語で会話をしてくれる。
「私がいるから」と思うと、焦る、焦る。
英会話、もっと上達しないといけないぞ、私!!

初のファーストクラス。
乗っている乗客は、私が接したことのない世界のインド人でした。

4 クンブメーラまでの道

コルカタからバラナシへ到着。初めて乗ったファーストクラスの車内で
思いっきり風邪を引く。寒すぎるほどのクーラーにやれる。
このままイラハバードまで行くつもりだったけど、体調的に辛い。
なので、一度バラナシの宿にチェックインすることに。
コルカタで日本人の人に「お勧め宿」と教えてもらったその宿は
3年前に私が泊まった宿だった。

しかし、部屋は満室。
「今晩8時にこの部屋に泊まっているババ(サドゥ)がチェックアウトするから
そしたらこの部屋を使ってね」と、いうことになる。
部屋をのぞいてみると、ババがふたり。

勝手にブラック・ババと呼んでいる、黒装束のサドゥ。
とても少数なのか、今まで3人ほどしか見かけたことがなかった。
話かけてみると、どうも人の死とか、黒魔術なんかと関係があるよう。
このババは英語を話す。後日、ほとんどのババが英語を話さないことを
身をもって知り、黒装束プラス英語オッケーという稀有なババだった。


ブラック・ババと一緒の初老のババ。
こちらのババは一切英語を話さないので、会話は不成立。
でもタバコをあげるとニッコリと笑ってくれるので、
「あなたの、笑顔が見たいから」ばかりに隙を見てはタバコを渡す。

歳も、そして恐らく宗派も違うババ同士がなぜ一緒にいるかわからないのだけど、
ブラックババは、当たり前のように初老ババの荷物を持ってあげたりしている。

話は相当へし折るけど、結局、このババたちと、その日の夜にイラハバードに向かうことになる。
メンツはババ・2人、宿のオーナーの奥さん(インド人)日本人女(私)、ドイツ人(男)という内容。
いったいどこに共通項があるのかまったく不明のグループだけど、敢えて言うなら

インド人・3人とインド好き外国人2人、、、、こんなところでしょうか?

夜、9時半に宿を出発。列車で行こうとしたけど、到着した列車は既に鈴なり状態だった。
、、、こんな状態なのに、なんで更に切符を売るのでしょうか?ねぇ、なんで?
きっと誰に聞いても答えは出てこない。考えても同じ。

「ここは、インドだから」そう思うことにして、すべてを受け入れる。

さて、次の列車を待つことになった。(なんで?次も絶対鈴なり列車なのに、、)
時間があるので、外に出てタバコを吸おうと歩いていると、
突然、「落ちる」私。
道端に、なんの囲いもなく、存在する穴ぼこ。2メートルほど落下する私。
膝下まで、きったねぇー汚水に浸かる私。
一瞬何が起こったのかさっぱりわからず。

「hey, are you O.K?」
なぜ、ドイツ人が私の頭上高くで話しかけるのでしょうか?並んで歩いていたのに。
引き上げられると、膝に擦り傷。汚水の中で、切り傷。
そして両足首も、軽く捻挫している。

できれば「ええ、沐浴してきましたよ」となにもなかったことにして
宿に戻って、ホットシャワーを浴びて、そのまま寝てしまいたい、、、とほほ。
いや、本当に戻れよ、その傷口はちゃんと消毒しろ!絶対!!なんだけど、
いやいや、私は行くよ、クンブメーラ!!
「君はラッキーだよ、あんな穴に落ちて骨折してないなんて!」とドイツ人。
たぶん、相当ラッキーだと自分でも思う。ラッキーなんだから、このまま旅を続けよう。
一度奈落の底に落ちないと聖地への道は開かれないのだ、、、、きっと。

結局、列車をあきらめて、バスロータリーに向かう。
、、、、でもそこでもバスは満員ギューギュー。
4時間掛かってやっとバスに乗ることができた。
既に夜中を回っている。

車中夜が明けて、でもバスは渋滞に巻き込まれてまったく進まない。

これもバス。インドではオッケー。


イラハバード市内まで、5キロの時点でどーにもこーにもならなくて、
バスを降りて歩いていくことになる。

会場まで、10キロはあるくことになる。
それでも、乗客たちは歩き始める。杖をついた老人も歩き始める。
もちろん、私たちも歩き始める。まさに巡礼。

早朝のパレードを見る予定だったが、日が高くなってもまだ会場に到着しない

お昼近く、河川敷に到着。ああ、懐かしい光景だな。


会場は25キロ四方の、町がそこにあります、くらい広大。
やっと町の入り口に到着しただけ。
なので、目的のサンガンまではあと数時間歩くことに。
サドゥのパレードなんて、とっくに終わっちゃっている。
でもババをはじめインド人は、パレード見学が目的ではなく、
そう、沐浴をしにここまできたので、がっかりしている様子はない。

疲れというのは、ある一線を越えてみると、アドレナリンが分泌されるのか
なんだかとってもハイテンションな気分。
現実的には、両足首の捻挫が痛いんだけど、なぜか
「はい、その痛みはとりあえずここに置いといて」という
新たな思考回路が構築される。本当に。

2時間ほど歩いてやっと「クンブメーラ会場内」に到着

5沐浴、そしてテントを探す


ひたすら歩く。
クンブメーラの会場は四方25キロで、「会場」というより「町」に近い。
お昼ちょっと前に、やっとサンガンに到着。
サンガンとは、ガンジス河とヤムナー河が合流する地点。
このサンガンで、2月10日に沐浴するためにインド中から人々が集まる。
恐らく12年前は、このサンガンまでたどり着いていないような気がする。

河の水は、、、、、正直いわなくとも、汚い。絶対的に汚い。
後から聞いた話では、地元新聞では毎日、河の汚染度と、
町の空気中汚染度が発表される。
「知っちゃったらとても沐浴する気になれないよ」ととある日本人の方に言われた。

もちろん、私は沐浴する気はなくて、着替えも持ってきていないし、
沐浴用の布も持ってきていない。
沐浴風景を撮影できたらな、、そんな軽い気持ちで
永遠に終わりの来ないような、道のりを乗り越えてきた。(マゾな世界)

サンガンの、前の通り。壊れたチャッパル(サンダル)が無造作に捨ててある。人混みでサンダル踏まれて無くしちゃったり、鼻緒が壊れちゃったり。
アウシュビッツにもこんな展示、あったよね、確か。

荷物を置いて、みんなでしばし休憩。

「さぁ、沐浴だ。先に行っていいよ、荷物は見ておくから」とサドゥ。

えっ?

ワタシモ、モクヨク、スルノデスカ?ココデ?

一緒に来たのはインド人である。サドゥである。
当然観光ではなく、沐浴しにきたのである。
一緒に来たんだから、そんなの当たり前でしょ?ってな感じで。

勧められたら、もうやるしなかない。
いや、単にNoの言えない日本人になってただけ。
いつでにドイツ人のお兄さんは、はっきりNo!と言い、
サドゥに「なんで?」と聞き返されていた。
こいつ、何しに来たんだ?とサドゥは不思議そうな顔してたけど、
ドイツ人、あなたは正しい、、、、に一票。

これだけの人の中で、サンガンのエリアは本当に小さく区切られている。
宿のオーナーの奥さんが布を貸してくれて、
「最初に手と腕に水を掛けて。そして次は自分の頭に。
その次に3回、河の中に身を沈めるの。ティケ?(O.K)」

うん、知っているよ。ハルドワールでやったから。
ハルドワードでは、できたから!!

太陽に、天に向かって手を合わせ、心の中で祈る。

「新たな12年が始まりますように」と。

我ながら、ナイスな願いではないか。
ふと周りを見渡すと、インド人たちはちゃんと指で両目と鼻を押さえて
水に浸かっている。あ、そうなんだ、聖なる河でも、やっぱりそうなんだ。
、、、、、無防備すぎたな、私。

「冷たいけど、気分は最高に幸せよ」とインド人女性。
私も確かに達成感はあったけど、う〜ん、大丈夫か?自分。
この河、潜っちゃったよ、足に擦り傷もあるのに。

みんな無事に沐浴を終えて幸せそう。
さあ、今日の宿泊先のテントに向かおう。

が、サドゥたちもあまりにも広すぎて自分たちの宗派のテントがどこにあるのかさっぱりわからない。広すぎる、いくらなんでも広すぎるのである。結局目的のテントにたどり着くのに数時間。日も暮れていた

6 クンブメーラ、テント泊

初日は、ここまで連れてきてくれたゴラットナートというサドゥクループのテントに泊まる。
後から聞くとこのグループは、厳しいルールがあるようで、
一緒のサドゥたちとゲートから入ろうとすると、私だけ、
思いっきり警備のポリスに止められる。どうも外人はお断りのテントのよう。

「いいだ、そのジャパニは自分たちの友達だから」とサドゥが叫んでくれて
私も、無事エントランスを通過。

始めに偉いサドゥのテントにご挨拶しに行く。
10人ほどのサドゥたちが雑魚寝しているテント。
そのテントの中でも3人の迫力のあるサドゥが、どうも偉い人らしい。
一緒だったサドゥもそれぞれの流儀で挨拶をする。それは何かの儀式のように見え、なぜか背中がゾクゾクとしてくる。
インド人女性もサドゥに頭をたれる。
私は、完全に珍入者だ。手を合わせてナマステーが限度、、、なほどの緊張感。
、、、とても写真撮っていいですか?なんて言える雰囲気ではない。

さっきから私の横で、たてに折りたたんだ毛布がぶら下がっていて時々揺れる。
カーテン代わりか、干してあるのかと気にしてなかったのだけど、
ふと上を見上げると、それは「座らない修行中」のサドゥで
蓑虫のように毛布に包まって肘用ハンモックにぶら下がりながらご飯を食べていた。

様子をうまく説明できないので、別のサドゥの写真だけど、こんな感じの修行。

このままご飯を食べる、寝る。歩くことはできるので、食器は返したりのときは歩く。
どのくらいこの修行を続けているのかわからないけど、足の甲はパンパンに浮腫んでいた。

夜も更けて寒いので、蓑虫のように毛布に包まれている。兄弟弟子が毛布を巻いてあげる。
真横にサドゥがぶら下がっている、、、、悲鳴を上げる1歩手前だった、、、、

「コヤツは誰だ?」みたいなことを(私のことだ)ビッグサドゥが聞く。
一緒だったサドゥが「バラナシから一緒で、、、」「ジャパニーズで、、、、」
「名前はマヤ」みたいなことを説明している。

アヤ、と名前を教えたはずなのに、なぜが「マヤ」に改名されている。
翌朝には更に「マリア」に改名されて、
キャンプ内を歩いていると、テントの中から「マリアー!チャイ飲んで行け!」と声が掛かる。
どうも外国人は私ひとりのようで、朝には伝達事項のように「ジャパニのマリアがいる」ことが
伝わっている模様。マリアでもマヤでも、もう何でもいいや。
私のこと、呼んでいるってわかるなら。

この日はこの雑魚寝テントで私もサドゥたちと雑魚寝となる。
ふと上を見上げると、ぶら下がっているサドゥ、、、、、
、、、濃すぎる。サドゥの生活を垣間見たい、、、と思っていたけど、
ぶら下がりサドゥを眺めながら寝るって、ここまで濃い世界でなくてもいいのよ、私。 初日から最もディープな世界に投げ込まれた感がある。 
横になっていても、なぜかビッグサドゥが、私のほっぺをつまんできたり、
顔の上に毛布をどさっとかぶせてきたりする。
もの珍しいものに、茶々を入れているような感じなんだけど、
とほほ、サドゥに対してどんな対応をしてよいのかわからず。
もう、どうでもいい。雨風しのげて足を伸ばして寝ることができるなら、
なにがぶら下がっていようと。ほっぺつままれようと。
24時間以上掛けて、やっと足を伸ばして横になることができる。それだけで幸せだ。

この修行の後に、彼は何を得るのだろう?
考えるには疲れすぎている。
いつのまにかその姿を見上げながら深い眠りにつく。

明日は友達のいるテントに移動。本格的なクンブメーラ生活が始まる。

濃霧に包まれる朝のサドゥテント

7  女性サドゥーたち

3年前のクンブメーラで知り合ったMちゃん。
今回、彼女が先に会場入りしていて、彼女が宿泊しているテントに
私も居候させてもらうことになる。

ここから始まるまったく英語が通じないサドゥとのテント生活。

俗世を捨てた神様の子供たちの世界にいざなってくれたMちゃんには
本当の本当に、感謝している。

さて、今回のお宿は女性サドゥのテントキャンプ。
男性お断り。そしてゲートにも常に警官が警備していて
見知らぬ男性たちがゲートに近寄ろうとすると、警告する。
でも一部の身元がしっかりしている男性サドゥは、昼間のみ挨拶にきて
チャイを飲んでいったりしている。(ごく少数だけど)

聖地で見かけるサドゥは圧倒的に男性が多いのだけど、
女性サドゥも存在する。が、圧倒的に少なく、見かけることもほとんどない。
数も絶対的に少ないけど、昔読んだ本では、女性サドゥは
放浪しないで、アシュラム内に留まって修行をすることが多いらしい。
どうしたって女性だけの放浪はリスクが高すぎる。
ま、これは旅人も同じなわけだけど。

男性サドゥには ババ・ジーと呼びかけ女性サドゥはマーター(お母さんの意)・ジー。ほとんど見かけることのないマーター・ジたちに一同に会えるなんてめったにない機会だ。
恐らく、女性サドゥたちにとってもこんな機会でないと全国に広がる数少ない「仲間」に
あったり、交友関係を深めたりできないんだと思う。

私も結構聖地にはいったこと、あるけれど、
これだけの人数の女性サドゥの集団を見たのは初めて。とても貴重な体験。


滞在したテントの持ち主(?)の女性サドゥ。
この人は雪が降っても雨が降っても裸足で過ごし、
米、チャパティなどの炭水化物を摂取しないという厳しい修行を課している。
(、、、、と、Mちゃんが通訳てくれた)

同じテントだった女性サドゥ。恐らくまだ20歳代後半から30歳代初めなのではないか?
背が高く、凛とした雰囲気のサドゥだった。
お母さんと、お弟子さんと一緒に巡礼にきていた。

このテントに宿泊しているのは、女性サドゥをはじめ
巡礼にきたインド人女性の信者さんたち。
夫婦で巡礼に来ても、奥さんは、この女性テントに宿泊して、
だんなさんは、男性サドゥテントに宿泊する。

藁を敷き詰めた床にそれぞれが持ち込んだ毛布やなんかを敷いて雑魚寝。
簡易囲炉裏がひとつ。この囲炉裏、、、、というか火は神聖なものなので、
私たち俗世のもの(インド人信者も含む)は触れることができない。
(囲炉裏の近くはサドゥのポジション。一般人は囲炉裏から離れたところが寝場所)
なので、この囲炉裏を使ってお湯をわかしたりチャイを作ったりするのはサドゥのみ。
毎朝、おでこにこの囲炉裏の灰をサードアイにさっと付ける。
たまに、私にも付けてくれる。灰を額に付けることで、神様が宿るんだって。

たまに男性サドゥのテントにお邪魔していると、一般のインド人が紙袋を持って
「灰をいただけませんか?」とひとつひとつのテントを回っている光景を見かける。
サドゥが一掴みの灰を袋に入れてあげると、いくばくかのお金を置いて次のテントに向かう。

そのくらい、囲炉裏とその灰は神聖なもの。

これは一般家庭にも当てはまることで、よそ者(特にアウトカーストな外国人)は
むやみにその家庭の台所に足を踏み入れるのはタブー。
台所は「火」のあることろなので、神聖な場所なのです。
その家の奥さんさえ、月経中は料理をしない。
月経はなぜだか不浄なものなので、その期間は神聖な場所には足を踏み入れることはしない。

さて、女性サドゥの場合は?
アシュラム(僧院)には月経期間を過ごすお部屋というのがあって、
月経中の女性サドゥはその部屋で過ごすそうです。
こんな、キャンプ生活中に月経がきてしまった場合は?
こういう時はどうしようもないので、少し離れた場所を陣とっておとなしく過ごす。
そして、目上のサドゥのところへの挨拶などは控える、、、そうです。

オンナというのは、どこの世界に住まおうが面倒なものである。

驚くことに、このクンブメーラ滞在中に日本人の女性サドゥ二人に出会う。日本人の男性サドゥには、今までも出会ったことがある。女性もいるだろうとは思っていたけど、まさか出会えてお話しできるとは。この方達のお話は、個人が特定されてしまう可能性が高いので、ここには記しませんが、お二人ともまだ若い方でした。      

滞在中、サンスカールという、サドゥの通過儀式に遭遇する。
既に、サドゥに弟子入りして共に過ごしているわけだけど、
このクンブメーラという期間に通過儀式をし、晴れて公式にサドゥとなるのです。
もちろん、女性サドゥは女性サドゥのみで行う。
サンスカールの最初の儀式は私たちの隣のテントで行われていた。


サンスカールの準備のために集まりつつある、女性サドゥたち。
剃髪して参加なんだけど、間に合わなかった人は河原に行く前に、
床屋さんが来てくれて、みんなきれいさっぱり丸坊主。
男性は全裸になるらしいけど、さすがに女性はそうは行かず、布一枚を身に付ける。

私は宿泊していたテントの、まだ10代と思われるサドゥも既に頭を丸めて準備完了。

歌が始まり、儀式が始まりだすと「写真は撮るな!」と厳しく言われたので、
写真はこれしかありません。

老いも若きも通過儀式。西洋人の女性もいた。

見ているだけなら怒られないので、少し距離を置いて見ていると、
他のサドゥが「あんたも頭剃って、そこに座れ」なんて、冗談ぽく言ってくる。
サドゥになるとは、俗世の自分が死に、その葬式を自身で済ませ、サドゥとして生まれ変わること。
なので、サドゥが死んだ場合、火葬はしない。もう俗世の葬式は済んでいるから。
布に包んで、河に流すのみ、だそうだ。

テント内で儀式が済んだあと、河原に移動しそこで一晩、薄い布一枚を身に付け(さすが女性なので全裸はない)飲まず食わずで過ごすそうだ。

この日の晩遅く、多分、2時か3時ごろ、就寝しているとテント内が騒がしくなる。
同じテントの若いサドゥが河原から戻ってきた。儀式終了。
もう、疲労困憊でぐったりしている。(ものすごく寒いんだ、ここの夜)
他のサドゥが急いで火をおこし、ぐったりしているサドゥに毛布を掛け、世話をしていた。

半分夢の中で、「ああ、私はサドゥになれそうにない」と思わずつぶやく。

8アナザー・ワールドから俗世に帰還。

昨日、クンブメーラからバラナシへ戻ってきました。
沐浴翌日当たりから熱を出してしまい(そりゃそーだ)
ユニクロのフリースが湿ってくるくらいだから、結構な熱。

10日が最大の日でしたが、なんで前日にデリーテロ犯の絞首刑を当ててくるのかな?と
少々不安要素もありましたが、不安のベクトルは別方向に向かい、
駅の連絡通路の歩道橋が落ちて50人近い人が死んだり、
(日本でも報道されたとか・結構エグい写真が一面を飾ってました、現地では)
クンブメーラの会場でも、圧死者がでたりと、う〜ん、なかなか大変だったようです。

前回のときより、外国人観光地客もどっと増え
カメラをサドゥに向けても咎める人がまったくいなくなった、、、、、
と、いうか、インド人自体もみんな写真撮っているし、
カメラを向けられて怒るサドゥもいなくなった。
そして警官も英語を話すことができ、場所を聞いても親切に答えてくれた。
12年も経つと、いろんなことが変わってくるんだな。

12年ぶりのイラハバードのクンブメーラ。
(現地ではアラハバードでなくイラハバードとみんな言う)

3年前のあの震災のとき、状況が刻一刻と悪化する中で
一番最初に浮かんだ思いは、
「あれ?私は2013年のクンブメーラに行けなくなっちゃうの?」でした。
なんでそんなことが一番最初に浮かんだのかは、自分でも定かではないのだけど、
すべてはノー・リーズン。浮かんできちゃったものは、仕方がない。

この6日間、まったく英語を話せない度99.999パーセントのサドゥたちとの生活。
「濃厚な日々」とか「圧縮されたような日々」を超えて
それは既に「アナザー・ワールド」でした。

書きたいことはたくさんあるけれど、今しばらく熱冷ましに専念します。

バラナシのガンガー沿いの部屋に泊まっていますが、
今まではずーと、そこで沐浴する人々を見て、
「よくやるよな、こんなに汚いのに。私には勇気ない」なんて言っていたのに
バラナシから更に下流地点での今回の沐浴、、、、、
熱だけで済んだだけ、ラッキーだったのかも。

思っていた以上に楽しんだ。

囲炉裏とその火、灰は神聖なものなので、サドゥ以外は触れることができない。
この灰を体に塗って、沐浴の日にサンガンに向かう。

9 バラナシ生活 その1

何度来ても、やっぱりこの景色にはいつも圧倒される、聖地カーシー。
犬も牛も猿も人間も、排除されることなく共存している。

人間の安全が第一なのかもしれないけど
(この考え方自体は間違っているようでならないのだけど、私)
野良犬が消えた日本はやっぱり寂しい。

排除することなく、多少の不便はあっても共存することってできないのか?
排除してまで効率とか便利性とか追求しないとけないのかな?

私の部屋で共存中のゲッコーは4匹

アニエス ベーと共同生活

明かりにつられて部屋に入ってきた虫たちを、美味しそうに食べている。
普段はおとなしく、壁や天井に張り付いている。
たま〜に、天井が落っこちてきてびっくりさせられるけど。

役に立たない存在なんて、ないんだよな、本当は。ふとそんなことを思う。
たぶん、私も、何処かで役に立てるはず。
、、、、まずは排除されないように気をつけよう。

おしゃれに進化するインドの虫除けクリーム、オドムス。
香りもマイルド、塗り心地も不愉快さがなくなった。
宿のみんなといても、ひとりだけ蚊の集中攻撃を受ける私。

「ドラッグ漬けになってない血は美味しいだよ、きっと」

、、、らしいけど、葉っぱしか食べていない血より
肉食べている血のほうが栄養満点なので、そっちに行ってほしい。

食料品、歯磨き粉、石鹸などなど「明るい家族」的な余計な絵が入るところがインド的。
世界中どこでは「まずは家族」なんだけど、
やっぱりインドあたりはその意識が強いと思う。

今回「あなたに出会えてよかった」の目薬・パイリマン。

バラナシ到着後3日にて、なぜか片目がお岩さんのように腫れる。
ものすごく沁みる目薬なんだけど、効果は抜群の9ルピー。
恐らく、洗顔時に、目に水が入って感染したもよう。
、、、、河の水じゃないよ、水道水だよ。

足だけパチャパチャの記念沐浴なら問題ないけど、
ガチの沐浴予定の場合、知ってて損はない目薬です。

さて、発熱生活すでに12日目。
ずっと出っ放しなので、「熱が下がった瞬間にこの薬を飲んで」と言われても
平熱だった自分が思い出せない状態。いやな咳も止まらない。
クンブメーラ組は、ほぼ発熱か咳にやれれている。

「あ、元気?コホッコホッ」
「いつ、バラナシに来たの?コホッコホッ」

すでに「コホッコホッ」は相槌代わりになっている。

あっちからもこっちからも、カエルの合唱のようにコホッコホッ。

「どう?熱ある?」「どれどれ」
発熱者同士で、ほっぺやおでこ触って確かめあってもなんにも役に立たない。
役に立たない挙句に「私より、熱ないね」とかどうでもいい比較が始まる。

「熱なんてね、出たければ出っ放しにしときゃいいのよ。」
そう思っていたのだけど、2週間近くそれが続くとさすがに心配になってくる。
心配したふりしながら放置してたら、宿のオーナーに怒られる。
で、明日からちゃんとホームドクターに診察してもらって、
薬を処方してもらうことに。

クンブメーラ組、バラナシでみんなして病んでます。